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お知らせ

〜土屋文明のおはなし02〜


松本高等女学校(現在の松本蟻ケ崎高等学校)に転任した文明は、短歌を作る暇がなくなるほど教育に心血を注ぎました。けれども周囲から反感を買ってしまい、大正13年(1924年)、木曽中学校への転任が発令。文明はそれを拒否して東京に戻りました。知人の紹介で法政大学予科の専任講師に就き、歌誌『アララギ』にも復帰。翌年には第一歌集の『ふゆくさ』を出版しました。
『ふゆくさ』は明治42年(1909年)から大正13年(1924年)まで、文明が19歳から34歳までの380首が収められた作品です。文明の初期歌風である抑制された感情の美しさと静かな強さが最も純粋な形で表現されています。題材となっているのは、冬の自然と生活の重さ、農村の生活・労働・人々、青年の孤独・不安・自尊心、家族・故郷・出自、そして日々の小さな出来事。『ふゆくさ』には、文明の原型がすべてあり、後の作品にも多大な影響を与えたといわれています。

「この三朝(みあさ)あさなあさなをよそほひし睡蓮(すいれん)の花今朝(けさ)はひらかず」

その後の文明は大学に勤めながら短歌を作成していきました。昭和5年(1930年)には、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在に。また、信州を去って上京する頃からの歌を収めた第二歌集『往還集』を発表し、歌人としての地位を確立しました。自然主義文学の影響ともいわれる友人や肉親を突き放すような冷静な視点は、この歌集以降、歌壇の中で一般的になりました。

「父死ぬる家にはらから集りておそ午時(ひるどき)に塩鮭を焼く」

昭和8年(1933年)には、明治大学専門部文芸科講師になりました。そしてその後は、教師や家庭人としての経験、山村生活の風景と交じわる人間模様を詠んだ『山谷集』、戦時下という日本の苦しい時代の中で、自然と人生を率直に詠んだ『六月風』『少安集』などを次々と出版しました。
また、このころから万葉集の研究にも打ち込み、昭和7年(1932年)には『万葉集年表』を出版。昭和14年ころから万葉踏査をはじめ、『万葉集』の研究者として、『万葉紀行』『万葉集上野国歌私注』『続万葉紀行』といった多くの論文や著作を発表しました。そして昭和24年(1949年)に刊行した『万葉集私注』により、4年後に芸術院賞受賞。宮中歌会始の選者となりました。

蓼科倶楽部アララギスイート

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