お知らせ
〜土屋文明のおはなし03〜

終戦間近の昭和20年(1945年)5月、東京・青山の自宅を空襲により焼失した文明は、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)川戸に疎開を始め、それから6年半群馬県で生活しました。この間、多数の作品を制作し、『韮菁集』『山下水』といった歌集を刊行。『山下水』は、素朴な自然詠と人間讃歌の傑作が多数収録されています。さらに『アララギ』の復刊につとめ、昭和21年(1946年)1月号から文明選欄を開始し、優れた指導力を発揮しました。
昭和26年(1951年)には、群馬より東京青山南町に帰住。翌年に明治大学文学部の講師になりました。昭和28年(1953年)『万葉集私注』により日本芸術院賞受賞。さらに宮中歌会始の選者となり、『山の間の霧』『自流泉』などの歌集も刊行。けれども、昭和35年(1960年)に、明治大学教授を辞任します。
昭和37年(1962年)、72歳のときに、心筋梗塞で入院することになります。しばらく休養をとりながらも5年後には、歌集『青南集』『続青南集』を刊行。翌年にはこれらが評価され読売文学賞を受賞。昭和46年(1971年)、81歳にして『アララギ』に「万葉集私注補正続稿」連載を開始。その後も歌集『続々青南集』、歌人としての歩み、万葉研究、アララギの人々との交流などを語った座談会集『歌あり人あり – 土屋文明座談』を刊行しています。
昭和57年(1982年)、文明91歳のときテル子夫人が亡くなります。テル子夫人と結婚したのは、大正7年(1918年)のこと、文明28歳のときでした。二人は同郷で、テル子夫人は地元の名士の娘であり、文明の初恋の少女の姉であったといわれ、少女は早世。縁あって二人は結ばれ、一男三女をもうけました。
「終わりなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ」
これは、テル子に先立たれた時の歌です。死とは終わりのない世界に入っていくこと。それならば、今先立とうとしている妻と、あと数年で同じように死ぬであろうわたしと、束の間の順序の後先に、どれほどの違いがあるのか。。。。。そう思いながらもその小さな「後前」の違いが私を悲しませるという内容でした。
その後も、岩波文庫から『土屋文明歌集』、歌集『青南後集』、エッセイ『羊歯の芽』などを刊行。そして、昭和59年(1984年)に文化功労者に、昭和61年(1986年)には文化勲章受章。平成2年(1990年)12月8日、100歳で肺炎および心不全により亡くなりました。
多くの歌集を刊行し、長い間歌壇の最長老として活躍した土屋文明。その長い人生の中で、信州の諏訪地方は大変思い出の深い土地であり、多くの作品を生み出した場所として知られています。
文明が実際に宿泊した蓼科 親湯温泉には、文明をイメージしたお部屋があります。ぜひゆっくりと滞在し、文明の歌の世界をたっぷりとお楽しみください。




土屋文明スイート