蓼科親湯温泉100周年カウントダウンプロジェクト
蓼科親湯温泉100周年カウントダウンプロジェクト

蓼科 親湯温泉は創業100周年に向け、カウントダウンプロジェクトを実施しています。
2018年度は、蓼科 親湯温泉のお食事処を全て個室化。 ロビーラウンジには蔵書3万冊を擁し、
蓼科と文学との繋がりを表現。そしてかっての社交の場を再現したBarも設置し、
チェックイン時にアルコールサービスなど大人の寛ぎの空間を充実させております。

バナー_2020年までの道のり_2016年翠 諏訪湖 OPEN 2017年蓼科 親湯温泉渓流沿い 露天風呂 OPEN 2018年Library Lounge & Bar OPEN 2018年宴どころ みすゞかり OPEN 2019年Coming Soon 2020年Coming Soon バナー_2020年までの道のり_2016年翠 諏訪湖 OPEN 2017年蓼科 親湯温泉渓流沿い 露天風呂 OPEN 2018年Library Lounge & Bar OPEN 2018年宴どころ みすゞかり OPEN 2019年Coming Soon 2020年Coming Soon

個室 お食事処

全お客様にごゆっくりとお寛ぎ頂く為に、個室のお食事処をご用意いたしました。ご朝食、ご夕食ともに個室でのお食事となります。皆様にはあたたかくお過ごしいただけるように床暖房になっております。 寒冷な土地ゆえ、足元からのじんわりした優しい温かさもおもてなしの一つです。

写真_個室 お食事処

蔵書ラウンジ & Bar

多くの文人・歌人達が大正、昭和にかけて蓼科 親湯温泉を訪れては束の間の休息と安らぎ、そして作品へのインスピレーションを持ち帰ってはまた来館される歴史を育んできました。その足跡をたどる展示が2Fにてご覧になれす。Bar も設置し、チェックイン時からビールやシャンパン等のフリーサービスも行います。3万冊の蔵書と共に蓼科と文人達との世界をお楽しみください。

写真_蔵書ラウンジ & Bar

ご挨拶

創業100周年にむけてのプロジェクトが動き出しています。ここまで来る事が出来たのも、多くのお客様やご関係者の皆様、そして地元の方々のご協力のお陰でございます。この場をお借りいたしまして深謝させて頂きます。誠にありがとうございます。初代、2代目、3代目の意思と私の意思は同じです。歴史を引き継ぎ蓼科を全国に示す事。そして、今の我々が嚆矢と成れたその時に、蓼科は輝きを取り戻すと僣越ながら考えております。しかし、我々はまだまだ未熟です。しっかりと深掘りをし続け、次の100年のスタートを迎えたいと考えております。

四代目代表取締役社長 柳澤幸輝

写真_四代目代表取締役社長柳澤幸輝

蓼科親湯温泉のあらまし

写真_蓼科親湯温泉のあらまし
1552年(天文21年)
甲州から川中島への最短距離を辿ったとされる「信玄の棒道」が、八ヶ岳山麓にできる。山深くにあった蓼科 親湯温泉は、その頃から傷病兵たちの湯治湯として利用された。
1601年(慶長6年)
初代諏訪藩主諏訪頼水が、蓼科 親湯温泉を直轄統治。
1900年(明治33年)
茅野駅と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。
1904年(明治37年)
歌人伊藤左千夫や日本画家平福百穂が、歌人篠原志都児の招待で蓼科 親湯温泉に長期滞在。蓼科の様子を作品で紹介し、関東圏に中部圏で蓼科が広く知られるようになる。そして、多くの文人歌人をはじめとした文化人が蓼科 親湯温泉に訪れる。この頃、文化財にもなっている“蓼科山歌”を伊藤左千夫が蓼科 親湯温泉で詠んだ。
1909年(明治42年)
蓼科 親湯温泉が湯川財産区に払い下げられ、ともに競争入札で財産区民から湯請人を選び経営を請け負わせた。
1923年(大正12年)
上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、蓼科 親湯温泉で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収めた。
1924年(大正13年)
蓼科保養所開設。
1926年(大正15年)
初代社長の曽祖父が蓼科に温泉ホテル三遊喜館を創業する。
1927年(昭和2年)
蓼科に温泉プールが開業。そして、名称をプール平とした。
1930年(昭和5年)
蓼科 親湯温泉にプール建設。その当時のオリンピック選手が来る。柳原白蓮が来たのもこの頃。
1937年(昭和12年)
蓼科郵便局開設。郵便と電信通信の取扱開始。
1940年(昭和15年)
初代社長の曽祖父が蓼科 親湯温泉を競り落とす。
1944年(昭和19年)
蓼科 親湯温泉は野比海軍病院の保養施設として所有権ごと強制的に接収された。
1948年(昭和23年)
合資会社親湯温泉設立。
1948年(昭和23年)
蓼科 親湯温泉のプールへフジヤマノトビウオこと古橋廣之進(元JOC会長)、橋爪選手などがこの時から6年ほどオリンピックの練習に来る。これ以降大学数校の水泳部も毎年冬期合宿に来る様になる。
1949年(昭和24年)
茅野駅から白樺湖間の路線バス1往復の運行。観光貸馬業の営業が始まった。
1953年(昭和28年)
2代目社長の祖父が、蓼科分校(北山小学校)開設。洋画家小堀四郎から「吉田松陰を見習いなさい。教育は少人数に限る」という助言があった。教師は、森鴎外の子小堀杏奴(作家)が富山県から武内雷龍(作家)を招聘する。
1957年(昭和32年)
小津安二郎が映画の滞在で訪れる。 1957年の『東京暮色』以降は蓼科高原に盟友・野田高梧(脚本家・蓼科の野田の山荘は「雲呼荘」)とこもって脚本を執筆。晩年の名作を生み出す(1957『東京暮色』、1958『彼岸花』、1959『お早よう』、1959『浮草』、1960『秋日和』、1961『小早川家の秋』、1962『秋刀魚の味』はすべて蓼科で執筆。小津の日記を集めた蓼科日記抄には、蓼科 親湯温泉の記載が17箇所もある。
1988年(昭和63年)
蓼科 親湯温泉 建て替え工事
2006年(平成18年)
蓼科 親湯温泉 リブランディングにおけるリニューアル工事
2011年(平成23年)
上諏訪温泉しんゆ開業。
2016年(平成28年)
萃sui-諏訪湖開業。
2026年
蓼科 親湯温泉100周年を迎える。
写真_蓼科親湯温泉のあらまし