百年の作法

お客様をお迎えする一本道があります。
父は当館へ続くこの道を何より大切にしておりました。
落ち葉を見つければ誰よりも早く掃き、
枝が落ちていれば車を止めて片づけました。
この道はただの通り道ではなく、
最初のおもてなしの場である…
父からそう教わりました。
父も祖父から教わったと聞きます。
二十八年前、私は家業である親湯温泉に戻りました。
当館へと続く六百メートルの道を
毎朝掃く父の姿に、正直、反発を覚えました。
利益に直結する仕事を優先すべきだと考えていたからです。
父の掃除を手伝っていた社員を別の業務に回し、
父をひとりにしてしまいました。
それでも父は、風の強い翌朝には、
何事もなかったかのように箒を取り、
その一本道を掃き続けていました。
やがて父が入院し、道を掃く人がいなくなりました。
落ち葉や砂塵がたまり、道の端で腐り、
雨のたびにぬかるみが目立つようになりました。
しばらくすると、お客様の数が
目に見えて少なくなっていきました。
他の旅館のお客様が増えている時期でさえ、
当館だけはその波に乗れませんでした。
私は以前の活気に戻そうと、大きな広告費を投資続けました。
しかし、お客様の数はほとんど変化が表れず、
忸怩たる思いだけをつのらせました…。
ある朝、泥の轍が蛇のように伸びる一本道が目に入りました。
その光景を前にして、ようやく気づきました。
最初の一歩であるこの道を、
長いあいだ放置してしまっていたのだと。
掃くことは小さな掃除ではありませんでした。
私たちの大切な作法だったのです。
私たちは今も、道を掃き続けています。
特別なことはいたしません。
これからも代々続く作法を守り続けるだけです。
二○二六年六月 吉日
親湯温泉 四代目館主
ご挨拶

2026年6月1日。蓼科親湯温泉は、創業百周年を迎えました。
今日まで当館を支えてくださったすべての皆様に、心より御礼申し上げます。百年という節目にあたり、ご挨拶に代えて「百年の作法」という文章を寄せました。これは、私たちが何を大切にしてきたのか。
そして、次の百年に向けて、何を変えずに受け継いでいくのか。
そのことを、四代目である私自身の記憶と言葉で綴ったものです。
百年は、到達点ではありません。
次の百年に向けて、私たちの姿勢が改めて問われる節目です。これからも蓼科という土地に恥じぬよう、日々の小さな営みを大切にしながら、一人ひとりのお客様を誠実にお迎えしてまいります。今後とも、蓼科親湯温泉をご愛顧賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
親湯温泉 四代目館主柳澤幸輝
蓼科親湯温泉のあらまし

- 1542年(天保11年)頃〜
- 武田信玄が諏訪地方を領有の後、佐久地方侵攻の為の軍用道路「棒道」を整備。親湯温泉の湯は外傷に効く霊泉として知られ、信玄公の「隠し湯」の一つと伝えられる。
- 1601年(慶長6年)
- 初代諏訪藩主・諏訪頼水が、親湯温泉、滝の湯、奥蓼科渋の湯を直轄統治。
- 1839年(天保10年)
- 矢ヶ崎喜惣治が霊夢をきっかけに温泉を発見。湯治小屋を建てたことが親湯のはじまりとなる。
- 1909年(明治42年)
- アララギ派の祖・伊藤左千夫が湯川(蓼科の下のエリア)出身の愛弟子 篠原志都児(しずこ)らを伴い来館。滞在中、蓼科の風光に感銘を受け、連作「蓼科山歌」十首を詠む。これを契機に島木赤彦、斎藤茂吉ら多くの歌人が師の足跡と名湯を求めて当館を訪れるようになる。以後、蓼科は近代短歌の聖地として広く知られるようになる。 ※当時支配人であった初代柳澤幸衛が、文人歌人たちから様々なものを頂戴する。
- 1926年(大正15年)
- 初代が経営を開始。親湯温泉の創業年とする。
- 1928年(昭和3年)
- 文部省が親湯温泉が立地する蓼科プール平エリアを高山保養地に指定
- 1930年(昭和5年)
- 親湯温泉に温泉プール建設。その当時のオリンピック選手が来る。歌人・柳原白蓮が初来館。以来、当館を定宿として度々静養に訪れるようになり、初代社長と二代目社長が後に別荘となる住まいの手配など身の回りの世話をした。その感謝のしるしとして白蓮より大型の掛け軸が寄贈される。
- 1940年(昭和15年)
- 作家・太宰治が新婚旅行で妻・美知子と共に来館。滞在の情景は作品「八十八夜」、美知子の著書「回想の太宰治」でも描かれている。
- 1944年(昭和19年)
- 戦時下、野比海軍病院の保養施設として接収される。
- 1948年(昭和23年)~
1952年(昭和27年) - 「フジヤマのトビウオ」こと古橋廣之進(元JOC会長)らが温泉プールで猛特訓。ヘルシンキ五輪までの強化拠点となり、日本水泳界を支える舞台となる。
- 1953年(昭和28年)
- 冬季通学の困難を憂い、二代目社長が北山小学校蓼科分校の設立を支援。作家の武内雷龍氏を教師として招聘。
- 1957年(昭和32年)
- 映画監督・小津安二郎が滞在。盟友・野田高悟と共に脚本を執筆し、『東京暮色』『秋刀魚の味』など晩年の名作群を蓼科で生み出す。小津の日記を集めた蓼科日記抄には、親湯温泉の記載が17箇所もある。
- 1987年(昭和62年)
- 三代目社長が本館清流亭を建築。
- 1949年(昭和24年)
- 茅野駅から白樺湖間の路線バス1往復の運行。観光貸馬業の営業が始まった。
- 2011年4月(平成23年)
- 上諏訪温泉しんゆ開業。
- 2016年6月(平成28年)
- 萃sui-諏訪湖開業。
- 2018年4月(平成30年)
- 「蓼科 親湯温泉」としてリブランディング及び改装工事を実施。三万冊の蔵書を備えたラウンジを新設。
- 2026年6月(令和8年)
- 創業百年を迎える。

100周年
カウントダウンプロジェクト
蓼科親湯温泉は、2026年6月に創業百年を迎えます。これまでの歩みを支えてくださった皆様への感謝を込め、100周年に相応しいさまざまな趣向をご用意しております。 百年の節目を、皆様とともに祝い合える時間となれば幸いです。