蓼科親湯温泉の歴史
蓼科親湯温泉
開湯400年とも1200年とも言われる温泉。
戦国時代には、武田信玄が隠し湯として利用したと伝えられ、
大正、昭和には多くの文人、歌人が温泉保養で蓼科親湯温泉に来館されました。
戦時中には帝国海軍の傷病院として
負傷した兵士の療養施設になったこともあります。
さらに、当時あった温泉プールはオリンピック選手が夏場以外でも
練習できる貴重なプールとして利用されていた歴史があります。
親湯温泉の歴史は古く、時代によって多くの方々に
様々な形で愛されてきた温泉です。
これから、具体的に親湯温泉の歴史を紐解きながら
ご紹介させて頂きます。
武田信玄の隠し湯
戦国時代、武田信玄が戦で傷ついた兵士たちをこの温泉に入れたところ、たちまち、傷が治ったと伝えられています。その源泉の開湯は、坂上田村麻呂が発見したとか平安時代にまで遡るといわれ、いにしえより、こんこんと湧く温泉は、永い間人々の心身を癒してきました。
この付近には武田信玄にまつわる伝説も多く、 信玄棒道や、信玄が滝に打たれて戦略を練ったという大滝など、歴史に思いを馳せながら、 その言い伝えを見て回るのも一興です。
蓼科幾年月
昭和初期から後期の蓼科の風景動画です。親湯温泉を始めとした旅館の営みなど収録しています。音声はありません。
映像提供:茅野市小川写真館様
親湯温泉の発展
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馬と温泉に入る
人馬一体という言葉があるように昔は、馬も温泉につかり、人間と一緒に旅の疲れを癒していたようです。温泉の後は宴会をし、夜になるとまた馬に乗り帰路につきました。
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大正時代の開拓者達
大正から昭和にかけて、高原の澄んだ空気や豊かな自然を求めて、保養所や別荘の開発が進み、温泉保養地としてだけでなく、高原リゾートとしても知られるようになりました。
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路線バスと親湯温泉
昔は、馬が歩くことでしか訪ねられなかった親湯温泉。道路の整備と共に路線バスが運行され、人々の足となりました。
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ホテル親湯、温泉プール
ビーナスライン沿いの蓼科湖まで車の渋滞が出来るほどのにぎわいでした。戦後まもない頃に、全国でも珍しい、温泉プールとして「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進さん等の、多くの水泳選手の練習の場となりました。 当時の温泉プールはありませんが、周りの森や渡り廊下などは当時のまま。豊かな効能と共に今に続いています。