ゆかりのある文人たち
蓼科親湯温泉と文学との出会い
きっかけは篠原志都児(しのはらしずこ 本名 圓太 えんた)でした。篠原志都児とは、アララギ派の歌人(蓼科親湯温泉から車で10分の湯川出身)で野菊の墓で有名な伊藤左千夫(さちお)を師匠に持ちますが、地元でもあまり知られておりません。その篠原志都児が、伊藤左千夫や平福百穂(ひらふくひゃくすい)を蓼科親湯温泉へ連れて来た事が、今日の蓼科を創り上げた物語の始まりでした。それ以前の蓼科親湯温泉は交通の便もなかったことから 地元の湯治場としてひっそりと存在するだけでした。
それが、蓼科をとても気に入った伊藤左千夫は、明治42年「蓼科山歌」10首を蓼科親湯温泉で詠みます。そして、この10首は志都児に与えられ茅野市有形文化財に指定されています。(このうち2首は当館の裏山に歌碑として設置されております。)
その後、伊藤左千夫を中心にこの地で歌会が開催されるようになり、左千夫を通じて多くの文人歌人がこの蓼科の地を知ることとなり蓼科親湯温泉は文人歌人達の梁山泊やトキワ荘、いわゆるインキュベーター(孵化装置)となっていったのです。
蓼科の出湯の谷間末遠く雪の御岳今日さやに見ゆ
信濃には八十の郡山ありといえど女の神山の蓼科われは
島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明、高浜虚子、柳原白蓮をはじめとした多くの文人歌人達が蓼科親湯温泉の歌や俳句を残してゆきます。太宰治が新婚旅行で蓼科親湯温泉を選んだのもこの様な素地があったからなのかもしれません。
世界的な映画監督小津安二郎監督が、蓼科に別荘を持ち創作に勤しんだことは有名な話であり、小津監督の日記を集めた“蓼科日記抄”には蓼科親湯温泉の記述が17箇所にも及んでいます。
その後の蓼科は、多くの文化人や知識人が別荘を構えるようになり、避暑地として全国的に有名になってゆきました。全ては、篠原志都児が伊藤左千夫を蓼科親湯温泉に連れてきたことから始まったのです。よって、蓼科親湯温泉は、篠原志都児、伊藤左千夫、平福百穂の作品を中心に展示をさせて頂いております。
文学を背景に持つ蓼科の黎明期、お見知りおき頂けましたら幸いです。
創業大正十五年 蓼科親湯温泉 四代目 柳澤幸輝
追伸
蓼科親湯温泉は、開湯1600年頃武田信玄の隠し湯として、地元の方々の湯治場として愛された場所でした。江戸時代は、蓼科エリアには親湯温泉(蓼科)、滝の湯温泉(蓼科)、渋の湯(奥蓼科)の3軒しかありませんでした。古くから地元湯川村の村営で営まれておりましたが、大正十五年に初代柳澤幸衛が 旅館業を営みましたのでその年を創業年としております。初代は、大正十五年以前より蓼科親湯温泉に携わっておりましたので、篠原志都児や伊藤左千夫を初めとした文人歌人とも面識があり、掛け軸や書等を数多く頂戴しておりました。展示物の多くは、初代、二代が文人や歌人との関わりの中からいただいたものばかりです。
明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。 蓼科親湯温泉は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。蓼科の自然の美しさを愛で、感嘆し、多くの作品が生まれましたが、それと同じ位に、またこの蓼科という舞台で恋のはかなさ、美しさ、哀しさを作品に謳い上げてもおります。文人、歌人たちのそんなエピソードをご紹介いたします。
-
太宰 治 1909〜1948
波乱の人生を送った 無頼派の小説家
太宰 治の新婚旅行
太宰を散歩に誘っても蛇がこわいといって、 着いたきり宿に籠って酒、酒である。 これでは蓼科に来た甲斐がない
『回想の太宰治』津島 美知子
井伏鱒二の媒酌で美知子と再婚し、自堕落な生活を立て直そうとした30歳の太宰治。太宰と美知子は、結婚後間もない八十八夜に信州に出かけ、諏訪、蓼科を訪れました。1泊目の諏訪で、太宰は酒をとり寄せて乱酔し、26歳の美知子は「テーブルクロスを汚したりして宿の人の手前恥ずかしかった」としています。その翌日、蓼科に着いた太宰は、さらに酒を求め、美知子は「この人にとって自然あるいは風景は、何なのだろう。…おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか」と、盲目の人と旅するような寂しさを覚えました。
それでも、太宰は美知子とこれまでとは比べものにならないほど、穏やかで安定した生活を送り、多くの作品を著します。 いよいよ3度目の心中のとき、太宰は「美知様 お前を誰よりも愛していました」と遺書を残しました。若い愛人と玉川上水に入水した太宰は、39歳で帰らぬ人となりました。
MORE -
柳原 白蓮 1885〜1967
蓼科に別荘を所有、 「大正三美人」と称された 美貌の歌人
柳原 白蓮のすべてをかけた恋
わが命惜しまるるほどの幸いを 初めて知らむ相許すとき
華族として生まれ、大正天皇の従妹にあたる柳原燁子(あきこ)(のちの柳原白蓮)は、「大正三美人」と称された美貌の歌人でした。没落した実家を救うため、26歳で九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚した白蓮は、意に染まぬ生活のなかで、短歌の才能を発揮します。34歳で宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)と出会ったとき、白蓮の人生は変わりました。7つ年下の龍介との恋は、当時の姦通罪に問われることすら恐れない、捨て身のものでした。
そして大正10年、白蓮は伝右衛門への絶縁状を新聞に公開し、宮崎龍介と駆け落ちをします。これが世に騒がれた『白蓮事件』です。白蓮はすでに龍介の子を宿していました。実家に連れ戻され、監禁状態のなかで、龍介の子を生んだ白蓮。2人が結婚したのは、事件から2年後のことでした。夫婦になった2人は、蓼科に別荘を持ち、2人の子と幸せに暮らします。白蓮と龍介は、互いに交した700通余の恋文を、すべて保管していました。
MORE -
瀬戸内 寂聴 1922〜
幅広い活動をする 天台宗の尼僧・小説家
瀬戸内 寂聴が愛した激情
親湯入口というバス停から、ヴィーナスラインを外れて一本道を下りてゆくと、道の左下方に川が流れ、川の向こう岸にお城のように聳えているのがホテル親湯であった
『ここ過ぎて』瀬戸内 晴美
瀬戸内寂聴が本名の瀬戸内晴美だった時代、白秋と3人の妻を描いた『ここ過ぎて』の取材で、親湯を訪れています。 夫に履き物を隠され、それでも恋人に会いたくて裸足で走り出し、そのまま帰らなかったという逸話をもつ晴美は、人がよく、恋に奔放な妻・章子に、ことさらに共感を寄せました。 「恋のない世になにがあるでせう」といった章子は、白秋に会ったその日に身を投げ出し、清貧時代の白秋を支えた情熱の詩人です。
白秋の自作序文に、「二人はただ互に愛し合ひ、尊敬し合ひ、互に憐憫し合つた」とありますが、ようやく家を建てた祝宴の席で、章子は出入りの記者と駆け落ちしてしまいます。それからの章子は結婚と離婚を繰り返し、次第に狂気に呑まれていきました。『ここ過ぎて』には、蓼科へ逃れた章子が白蓮の別荘で静養し、ひとり立ちしようとした姿が描かれています。
MORE -
伊藤 左千夫 1864〜1913
蓼科を愛した代表的な歌人
伊藤左千夫の純情
秋風のいづれはあれど露霜に 痩せし野菊の花をあはれむ
『野菊の墓』
伊藤左千夫は、蓼科を愛した代表的な歌人の一人です。「恋の悲哀を知らぬ人には、恋の味を話せない」と語った左千夫は、数多くの短歌と、一途な純情にあふれる小説を残しました。伊藤左千夫の処女作である『野菊の墓』は、のどかな農村で起こる、恋を知り初めた一組の男女の物語です。
15歳の政夫と17歳の民子は、山を行く道すがら、お互いを野菊、りんどうに例えて心を通わせました。民子のモデルは、牧場に勤めた若かりし頃の左千夫が想いを寄せ、結婚を申し込んだ「きさ」と言われています。きさの縁者に申し込みを断られた左千夫は、結婚をあきらめましたが、その15年後、きさが嫁ぎ先の家で亡くなったことを知ります。その2年後、左千夫は『野菊の墓』を著しました。左千夫は、自ら『野菊の墓』を朗読する際、涙に声をつまらせることしきりだったといいます。
MORE -
土屋 文明 1890〜1990
諏訪市で教師を務め 歌集『ふゆくさ』を著した歌人
土屋文明の初恋の人
墨うすくにじむ習字をただに見ぬ 一つ机に並ぶ少女を
『青南後集』
28歳で諏訪へ赴任し、処女歌集『ふゆくさ』を表した土屋文明。文明には子どもの頃、すでに決まった人がいました。それは小学校同級の塚越エツ子です。村の素封家であるエツ子の父は、幼い文明に「どうだ、エツ子を嫁にやろうか」と声をかけ、それは村中のうわさになりました。成長するにつれ、文明とエツ子も、それを意識するようになったといいます。
ある日、下校途中の文明の行く先で、女生徒が道をふさいでいました。戸惑う文明を目に留めた子が、「この子は通してやりなよ。エッちゃんの親類の子だよ」と言います。だまって歩を進めた文明の目に、顔を赤くして立つエツ子が映りました。「どこの子だね」「エッちゃんのむこさんだんべ」という声も聞こえ、文明は足を早めずにはいられなかったといいます。 文明が中学二年のとき、エツ子は病を得て亡くなりました。のちに、文明はエツ子の姉テル子と結婚します。
MORE -
島木 赤彦 1876〜1926
諏訪市に生まれた アララギ派の歌人
島木赤彦の最初の弟子
夏草のいよよ深きにつつましき 心かなしくきはまりにけり
『赤光』
上諏訪村(現諏訪市)に生まれた島木赤彦の恋は、赤彦が校長を勤めた塩尻市の広丘小学校に、静子が新卒教師として就いたことから始まります。静子は、単身赴任の赤彦と一つ屋根の下に起き伏しし、朝夕の食事をともにしました。最初の妻を亡くした半年後に、その妹と結婚し、愛情にかけた生活を送っていた33歳の赤彦と、自らも歌をつくり、赤彦を敬愛していた19歳の静子。2人は分校へ出かけたある日の夏に、迷い込んだ草原で互いの愛を認めます。
赤彦がその日を詠った上記の一首を、「…接吻にもならぬ、握手にもならぬ、併し接吻にも、握手にも、啼泣にも、只一髪を隔てた苦悩の溜息である…」と、解説しています。 恋仲になった2人は、多くの相聞歌を詠みましたが、6年後、赤彦が上京して家族のもとへ去ると、赤彦と静子の関係は終わりを告げました。
MORE -
斎藤 茂吉 1883〜1953
蓼科の詩を詠んだ 「アララギ」の中心人物である歌人
斎藤茂吉の最後の女性
くちびるのあかきがなかに入りて行く 牛の乳さえあなねたましも
医学、短歌と2つの道を選んだ斉藤茂吉は、53歳のとき、正岡子規の33回忌歌会で、24歳の長井ふさ子と出会います。年の離れた2人の恋は、茂吉はもちろん、ふさ子にとっても生きがいでした。ふさ子が受けた150余の手紙のうち、茂吉の没後10年たって公開された120余には、茂吉の恋情があふれ出ています。「…食ひつきたい! …ふっくらとした、すきとほるような、搗きたての餅のやうな、尊い、ありたがく、甘い味ひのしたあのへん!」「これは非常なお願ひですけれども、東京に居られるとき、Y翁と御二人ぎりで散歩されたり、トンカツ食べられたり、映画見たりしないで下さいませんか…」
しかし、2人の仲を思いつめたふさ子は、父の勧めで見合い、結納までします。「他の人の愛情を受けることは苦痛」と婚約を破棄しました。ふさ子は、茂吉との関係も解消し、歌から離れました。ふさ子は生涯、嫁ぐことはなかったといいます。
MORE -
高浜 虚子 1874〜1959
戦時中、浅間山麓の小諸に 疎開した俳人
高浜虚子の愛弟子
虹立ちて忽ち君のある如し
戦時中、浅間山麓の小諸に疎開した俳人・高浜虚子は、晩年、病弱ながら美しい森田愛子という弟子を得ます。若く多感な愛子は、病気が重くなるほど、生きる希望を句作に見出し、虚子は彼女の境遇を知るにつれ、なお深くいとおしみました。虚子が事実をまったく欺かぬという態度で著した写生文『虹』には、愛子とその恋人の柏翠が小諸の虚子を訪ねてきたこと、虚子が愛子の家を訪れたことが描かれています。
ある時、病身のために同行できないことを悲しむ愛子が、虚子との別れを惜しんで見送った車の窓に、色鮮やかな虹が映りました。「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたったときに…」独り言のようにもらした愛子の言葉は、その後、虚子にいくつもの句を詠ませます。『虹』に続く一連の小説には、病の果てに、愛子が31歳の生涯を終えたこと、その一周忌までが描かれています。
MORE
文人たちの歌碑
伊藤左千夫や土屋文明、島木赤彦など、親湯を愛した文人たちによる「親湯名詩」。星降るガーデンでご覧いただけます。
そびえ立つ山々、高原の澄み切った空気、 四季それぞれに見せる美しい風景の中で渓流のせせらぎとともに親湯を詠んだ和歌を味わいながら散策をお楽しみください。
-
伊藤 左千夫 いとうさちお
元治元年(1864)〜大正二年(1913) 歌人・小説家 千葉県生まれ。『馬酔木(あしび)』『アララギ』を刊行しアララギ派の礎を築いた。小説『野菊の墓』(映画『野菊のごとき君なり』の原作)がある。- 真白玉透き照るまでに明らけく清き出湯が滝つせのごと
- 真っ白い宝玉が、透き通って輝くように 明るく清らかな温泉がまるで滝のようにあふれています
- 神さぶるみ湯の光に現身の醜のむくろも見らくうるはし
- 神々しいお湯の光に私のこの醜い身体も美しく見えます
- ねもころに心とどめて浴み居ればいよよ尊く清き出湯や
- ねんごろに心をとめて温泉に浸っているとますます尊く清らかないで湯であると思われます
MORE -
島木 赤彦 しまきあかひこ
明治九年(1876)〜大正十五年(1926) 歌人 長野県生まれ。 アララギ派に属し、伊藤左千夫に師事。歌集『切火』『氷魚』など。- 雪ふりて来る人のなき山の湯に足をのばして暖まりをり
- 雪がふって来る人のいない山のお湯に足をのばして温まっています
- 草枯岡いくつも超えて来つれども蓼科山はなほ岡の上にあり
- 草が枯れている丘をいくつも超えてきたけれども、蓼科山はなお向こうの丘の上にもそびえています
- 湯のうへの岡にのぼれば眼近なり雪の残れる蓼科の山
- 親湯野上の岡に上ったら雪の残っている蓼科山が間近に見えます
MORE -
斎藤 茂吉 さいとうもきち
明治十五年(1882)〜昭和二十八年(1953) 歌人 山形県生まれ。 伊藤左千夫に師事し『アララギ』の中心的な歌人に。 昭和二十六年(1951)に文化勲章受賞。- 山深く入りつつ来れば谿水とわきいづる湯と共に流れぬ
- 山深く入ってきたら谷の水と湧き出る湯が一緒に流れています
- 蓼科はかなしき山と思ひつつ松原なかに入りて来にけり
- 蓼科はかなしい山だなあと思いながら松の林のなかに入ってきました
- 冬さびし前山のうへに蓼科の全けき山は今ぞ見えわたる
- (木の葉が落ちたから)冬の装いをし始めた前山の上に、蓼科の山の全容が今見えてきました
MORE -
土屋 文明 つちやぶんめい
明治二十三年(1890)〜平成二年(1990) 歌人 群馬県生まれ。 『アララギ』を編集。昭和六十一年(1986)に文化勲章受賞。- 秋の日のますみの中に蓼科はただ穏やかにしづまれにけり
- 秋の日の美しく清らかに澄んでいる空気のなかに、蓼科山がただ穏やかに静かにそびえています
MORE