お知らせ
〜小堀杏奴のおはなし 02〜
森鴎外の次女として知られる随筆家、小堀杏奴。油彩画家の小堀四郎と結婚して、2人の子供をもうけた後、疎開のため蓼科へ移り住みました。小堀一家の蓼科での暮らしをサポートしたのが、蓼科 親湯温泉(当時は三幸旅館)の二代目社長である柳澤幸男でした。
小堀一家が三幸旅館の近くの家で生活を始めたのは、昭和20年3月のことです。けれども四郎だけは一人で東京に戻り、世田谷のアトリエの自宅を守っていました。杏奴は、長女と長男の鴎一郎と3人で暮らしていましたが、夫の安否を心配しながらの慣れない田舎暮らしには相当苦労していたといいます。特に電気もガスもない生活は初めてで、毎日七輪の焚きつけもなかなかうまくできなかったとか。そんな中、地元の人達の中には若々しい杏奴と子供二人が兄弟三人で苦労していると間違える人もおり、とてもよくしてもらったと書き残しています。
終戦後、蓼科の家族のもとに戻ってきた四郎は畑仕事に没頭。四郎は、美しく雄大な自然に魅せられて、以後10年間一人で蓼科に残りました。そこでの日々は、後に自然の尊厳や生命の神秘を描くことに繋がったといわれます。
杏奴は、後に四郎との60年間の結婚生活の中で、蓼科での暮らしが一番楽しかったと書いています。そして、杏奴にとっての蓼科は、辛いことばかりの疎開先ではなく、じゃがいもやかぼちゃ、ネギなどを育てて大地の恵みをいただく喜び、寒さの厳しい蓼科の冬の風景、そこで感じる炭のこたつの温かさなど、家族とともに過ごしたさまざまな思い出が詰まった特別な場所になっていました。
小堀一家は、蓼科 親湯温泉(当時は三幸旅館)の柳澤幸男に家や暮らしのサポートをしてもらう中で、互いに打ち解け家族ぐるみの付き合いをしていくようになったといいます特に四郎と幸男は馬が合ったのでしょうか、小堀一家と柳澤一家は、蓼科 親湯温泉に訪れて温泉やプールを楽しむのはもちろん、互いの家族が集まって食事をしたり・・・、小堀家の長男鴎一郎が幸男の息子である三代目社長の日出夫の家庭教師をしていたこともありました。
温泉旅館を営む柳澤幸男は、常々蓼科の発展のためにも、蓼科で暮らす子供たちに教育の場を与えたいと考えていたといいます。戦後、国も開拓者の子弟の義務教育を優先させる方針を打ち出したこともあり、蓼科でも北山小学校の分校を建てるという話が持ち上がりました。この分校を建てるために、幸男に協力してくれたのも小堀夫妻でした。北山村立北山小学校蓼科分校は、昭和28年(1953年)6月1日に開校しました。分校のために奔走した幸男と小堀夫妻は、より深い絆で結ばれることになりました。