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〜小津安二郎監督のおはなし 01〜

『晩春』『麦秋』『東京物語』など、映画史に残る数々の名作を残した監督 小津安二郎。低位置のカメラアングル、徹底した美への追求など、小津調という作風を確立し、当時の日本の社会状況を家族の日常の中に映し出した作品は、今もなお世界中の映画人に影響を与え続けています。中でも『東京物語』は、世界最古の映画協会の一つに数えられる英国映画協会(BFI)発行の『Sight&Sound』誌が1952年から10年に一度発表している、358人の映画監督が選ぶ「映画監督が選ぶベスト映画」では2012年に1位、846人の映画関係者が選ぶ「批評家が選ぶベスト映画」では3位に選ばれました。

そんな映画界の巨匠も蓼科を愛した一人でした。小津が蓼科を訪れたのは、昭和29年(1954年)8月18日のこと。『晩春』以降の全作品を小津とともに脚本を書いた野田高梧の山荘「雲呼荘(うんこそう)」での滞在がきっかけでした。「水がうまい。酒がうまい。空気がうまい」と蓼科が気に入った小津監督はその後何度となく訪れ、昭和31年(1956年)には、製糸業で日本の近代化を支えた片倉家の別荘だった「片倉山荘」を借り、「無藝荘(むげいそう)」と命名。蓼科では『東京暮色』から最後の作品となった『秋刀魚の味』まで全7本の作品のうち6本の脚本を執筆しました。数々の名作を生み出した「無藝荘」は、仕事場としてだけでなく、訪れる映画人たちとの交流の場となっていました。俳優の佐田啓二や笠智衆、新藤兼人監督など、当時小津や野田を訪ねて蓼科を訪れた映画人たちは、自らも蓼科に別荘をもち、蓼科は華やかなにぎわいに包まれました。

当時の様子を今に伝えるのが『蓼科日記抄』です。「雲呼荘」には、訪れた客たちが自由に書くことができる日記帳「蓼科日記」が置かれていました。『蓼科日記抄』は、「蓼科日記」18巻の脚本執筆に関わる主要部分を収録したもので、野田や小津らが蓼科での日々の出来事を記しており、地元の人たちと交流し、蓼科の自然とともにのびやかな毎日を過ごす、その暮らしぶりを垣間見ることができます。

『蓼科日記抄』を読み進めていると、「親湯」という表記で蓼科 親湯温泉が何度も登場します。当時の蓼科 親湯温泉は「親湯温泉ホテル」という名前で、「無藝荘」や「雲呼荘」から歩いていける距離にあり、小津と野田は散歩がてらよく訪れて湯を楽しんでいました。また客が訪れたときは連れて行き、時には「親湯」で宴会を開いて一緒に宿泊などもしていたといいます。

今年は、小津生誕120年、没後60年を迎えます。時代を超えてなお新鮮な感動を与え続ける小津作品。映画界の巨匠がインスピレーションを受けて名作を生み出した蓼科には、小津や野田が歩いた散歩道がそのまま残り、「無藝荘」(プール平に移築)、「雲呼荘」(現在は「新・雲呼荘」として改修し、「野田高梧記念蓼科シナリオ研究所」として公開)、そして蓼科 親湯温泉が、雄大な自然に包まれながら時を刻んでいます。

次回は、蓼科 親湯温泉における小津のエピソードをご紹介します。

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