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〜蓼科 親湯温泉 蓼科倶楽部のおはなし04〜

「蓼科倶楽部」のお部屋をご紹介してきたコラムも最後になりました。今回は多くの名作を残した小説家 太宰治と、情熱的な歌風が特長的な歌人 柳原白蓮のお部屋を人生とともに紹介しています。今もなお多くのファンに支持されている二人。実はいろいろなつながりから蓼科とも縁があったというのは、興味深い話です。

太宰治スイート

太宰治は、昭和期に活躍した小説家です。明治42年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現五所川原市)の大地主の家に生まれ、芥川龍之介の影響を受けて中学時代には同人雑誌を刊行。高校時代には左翼思想にも影響を受けました。昭和5年(1930年)上京して井伏鱒二に師事し、昭和10年(1935年)『逆行』が芥川賞候補になるものの落選。翌年発表された短編集『晩年』によって作家としての地位を確立し、戦後は『桜桃』『ヴィヨンの妻』『斜陽』『人間失格』など数々の作品を生み出し、無頼派と呼ばれました。

自殺未遂や薬物中毒を繰り返し、昭和23年(1948年)6月13日に玉川上水で入水自殺。このとき友人の伊馬春部に遺した色紙には、伊藤左千夫の短歌「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」が記されていました。短歌への関心を深め、特に伊藤左千夫の作品を好んでいたという太宰。左千夫が愛した蓼科へは太宰も新婚旅行で訪れ、蓼科 親湯温泉に宿泊されました。

太宰治スイートは、黒の中に金色が混ざる独特の色使いの家具と壁紙によってモダンな印象に。陰鬱な作風ながら今もなお多くの読者を魅了している太宰を表現しています。小上がり部分をなくして、その場所にチェストと装飾の草木、小さな机と椅子を置き、太宰が執筆していたような空気を作り出しています。

柳原白蓮スイート

柳原白蓮は、大正から昭和期の歌人です。本名は宮崎燁子(あきこ)。明治18年(1885年)に伯爵柳原前光の次女として生まれました。前光は大正天皇の生母の兄で、燁子は大正天皇の従妹に当たり、また、大正三美人の一人としても知られています。15歳で北小路家資武(すけたけ)と結婚し、20歳で離婚。実家に帰ってからは東洋英和女学校に編入して、この頃に佐佐木信綱が主宰する竹柏会に入門しました。明治43年(1910年)には、九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再び結婚。けれども結婚生活は幸せとはいえず、孤独や苦しみを短歌に託し、竹柏会の歌誌『心の花』に発表し続けました。私生活を赤裸々に歌う内容に信綱から雅号の使用を勧められ、「白蓮」に。大正4年(1915年)に自費出版した処女作の歌集『踏絵』は、情熱的な歌風が注目されました。大正10年(1921年)には、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちし(白蓮事件)、結婚。その後は、無産者開放運動に尽力し、戦後は平和運動にも力を注ぎました。白蓮は蓼科に別荘を建て、龍介や家族とともに蓼科に何度となく訪れたといいます。蓼科 親湯温泉の先々代とも交流がありました。

柳原白蓮スイートは、柳原伯爵家で育った華やかなその生い立ちに、真実の愛を貫いたその強さ、そして後世に伝えられるほどの美しさに相応しい、大胆かつ優美な部屋に仕上げました。ゴールドグリーンを基調にした壁紙とチェストの上にマグノリアのアートフラワーと同じ花を刺繍したランプがアクセントになっています。

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