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〜蓼科 親湯温泉 蓼科倶楽部のおはなし03〜

文学と歴史が紡ぎだす上質で優雅な寛ぎ……蓼科 親湯温泉の中でフラッグシップというべき「蓼科倶楽部」。今回紹介するのは、斉藤茂吉、小堀杏奴、幸田文をイメージしたお部屋です。歌人として、随筆家、小説家として活躍した文人のお部屋は、そこここに個性を感じられ、また新たな魅力に気づくことができるでしょう。

斉藤茂吉スイート

斉藤茂吉は、医学博士であり大正から昭和にかけて活躍した歌人です。明治15年(1882年)山形県に生まれ、14歳にはその資質が認められて東京の開業医斎藤紀一方に寄寓。斎藤家の養子となって跡を継ぎ、精神科医になりました。一方で幸田露伴の文学を愛し、正岡子規の遺稿集『竹の里歌』に感動して作歌を志し、明治39年(1906年)に子規の流れをくむ伊藤左千夫に入門して、歌誌「アララギ」では中心的な歌人として活躍しました。大正2年(1913年)に発表した処女歌集『赤光(しゃっこう)』は、写生を基調とし万葉調の中に激しい感情を近代的に歌い上げ、芥川龍之介らにも影響を与えたといわれます。

斉藤茂吉スイートは、留学のためヨーロッパに渡った茂吉に相応しく西洋的な雰囲気に。落ち着いたトーンのシノワズリの中で小鳥や植物が息づく、歌人として医師として生きることに真摯に向き合ってきた茂吉が感じられるお部屋です。

小堀杏奴スイート

小堀杏奴は、大正2年(1913年)に森鴎外の次女として生まれ、昭和平成期にかけて活躍した随筆家、小説家です。鴎外の下、幼少の頃より豊かで華やかな環境で育ちました。画家の藤島武二に師事し、昭和6年(1931年)には弟の類とともにパリに留学。昭和9年(1934年)には画家の小堀四郎と結婚し、その後は『晩年の父』『森鷗外、妻への手紙』『回想』など、鴎外研究の新たな資料となる作品を世に送り出しました。1945年(昭和20年)には長野県蓼科へ家族で疎開。夫の四郎はその後10年間蓼科に残り農耕生活をしながら画業に専念し、蓼科小学校建設運営に尽力するなど、杏奴自身も蓼科の発展に貢献しました。

小堀杏奴スイートは、パリで絵画を学んだ杏奴の華やかなイメージを表現。全体をピンクベージュで統一したフェミニンなお部屋です。蓼科 親湯温泉にも訪れた杏奴が、そこに座り絵画を眺めているような空間を生み出しています。

幸田文スイート

幸田文は、昭和平成期にかけて活躍した随筆家、小説家です。明治37年(1904年)に幸田露伴の次女として生まれ、幼いころに実母を亡くし、露伴に厳しくしつけられました。昭和3年(1928年)に24歳で結婚。昭和13年(1938年)に離婚して、娘を連れて実家に戻り、露伴が没するまでともに暮らしました。作家としてデビューしたのは40歳を過ぎてからのことで、昭和22年(1947年)に父との思い出を綴った随筆『雑記』『終焉』『葬送の記』によって清新な文章が高く評価され、その後も数々の随筆を発表。さらに『黒い裾』『流れる』『おとうと』などの小説も手がけました。

幸田文スイートは、名文家であった幸田文に相応しく、匂い立つような紅いローズと紅いソファで華やかに。随筆の中でも動植物への親しみを綴っていた文の暮らしを感じられるようなお部屋です。

→次回は、蓼科 親湯温泉の「蓼科倶楽部」太宰治、柳原百蓮のスイートについてご紹介します。

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