日本語 English 繁體中文

お知らせ

2026.02.26

〜蓼科 親湯温泉よりお届けする今月の1冊『100歳の流儀』〜

『100歳の流儀』新藤兼人

「映画だけにかぎらず、自分の表現の場を見つけることが生きる証である。ビジネスの世界でもどんな世界でも、自分が定めた世界でしっかりと生きるのだ、と覚悟をもてばいいのだ。そして今、できることを必死に重ねていれば、道はでき、そして大きく開ける。塙監督も近藤監督も、道は大きく開いた。」

新藤兼人監督は、明治45年(1912年)に広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区)で生まれました。金融恐慌で裕福だった家が没落し、16歳で尾道の兄の家へ。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』を見たことで、映画の世界に飛び込みます。22歳から下働きを経て脚本家として道が拓けようとした32歳で召集を受け旧海軍に入隊。戦後は再び脚本家としての道を歩み、昭和26年(1951年)に39歳にして『愛妻物語』で映画監督デビューしました。

新藤監督は、平成24年(2012年)で亡くなるまで、映画史に残る49作もの映画を撮り続けました。また、脚本家として膨大な量のシナリオを書いたことでも知られています。作品のジャンルは幅広く、家の没落、広島原爆、旧海軍での経験を基にしたもの、また社会性の強い作品、性のタブーに挑戦した作品も多く生み出しました。

原爆の傷が残る広島を描いた『原爆の子』、セリフを省くことで生きることの本質を描いた『裸の島』などは特に高く評価されています。そして平成14年(2002年)には、長年の映画製作に対して、文化勲章を受章しました。

・要領よく生きなければ競争に負けると思っているならそれはまやかしである。
・青春の心持ちがなくなると仕事ができなくなる。
・智恵や知識だけではどこへも到達しない。
・生きているかぎり生きぬきたい。

『100歳の流儀』には、激動の人生を生き抜いた新藤監督ならではの言葉が詰まっています。常に人間を見つめ、人間の恐ろしさ、そして人間への希望を描き続けた新藤監督の言葉は、今を生きる私たちの心に刺さり、生きる姿勢を示してくれています。

新藤監督も蓼科を愛し、度々訪れた映画人の一人です。小津安二郎監督や野田高梧氏らとともに蓼科に集い、また蓼科 親湯温泉にも訪れました。『午後の遺言状』『本能』など、蓼科を舞台にした作品には、かつての壮大かつ美しい蓼科の風景が映し出されています。

_category

Archive