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〜縄文の里のおはなし01〜

八ヶ岳山麓に広がる茅野市には237もの縄文時代の遺跡があり、これらの遺跡からは国宝土偶である「縄文のビ-ナス」や「仮面の女神」が出土しました。今や「縄文の里」としてその名を知られている茅野市。なぜ、このような高所で縄文文化が育まれたのか、その謎に迫ります。

縄文時代は、紀元前14000年頃から前10世紀頃まで約1万年続いた時代です。縄文時代以前の旧石器時代と同じく狩猟採集社会でしたが、大きな違いは土器の発明です。土器を使用することによって、食べられるものの幅が広がり、旧石器時代と比べると暮らしは大きく変わりました。そして、人々は定住生活を始め、村を形成するようになりました。
茅野市にある遺跡のうちそのほとんどは、縄文時代の中でも中期にあたる約5000年~4000年前の遺跡です。このころの気温は今とほぼ同じか少し高いくらいで、とても暮らしやすい環境だったと考えられています。そのため中部地方から関東地方にかけて集落が増え、なかでも八ヶ岳山麓には集落が急増しました。

木の実を主食とする当時の人たちにとって、クリ、ドングリ、クルミなどの落葉広葉樹の森が広がる八ヶ岳山麓は食料の宝庫でした。キノコや山菜も豊富で、シカ、ノウサギ、キジ、カモなどの動物も生息。川では、イワナやアマゴなども泳いでいました。これらの動植物は、食料となるだけでなく、衣服や住まいの材料にも使用されました。

また、広大な裾野が広がる八ヶ岳の麓にはいくつもの川が流れ、谷と谷との間に台地が形成されました。人々は台地に集落をつくり、小川や湧き水を共同で使用しながら暮らしていました。

さらに、北八ヶ岳から霧ヶ峰・和田峠に至る周辺には、本州最大の黒曜石原産地があります。縄文時代、天然ガラスの黒曜石は刃物などの材料として使用されていました。当時の霧ヶ峰・和田峠周辺でとれる黒曜石は上質で、北は北海道、西は三重県まで運ばれたという記録も残っています。現代になって、黒曜石を得るために、地面を掘ったくぼみなども見つかり、周囲にも多くの遺跡が残っていることから、当時の人たちは、黒曜石の原産地に近い場所に定住したことが分かります。
このように食物が豊富で、集落が作りやすい地形、品質のよい黒曜石という3つの条件から、八ヶ岳山麓には人々が集まり、独自の文化を育んでいきました。数々の遺跡からは土偶や土器が出土し、当時の様子を今に伝えています。
→次回は茅野市にある遺跡をご紹介します。