お知らせ
〜瀬戸内寂聴のおはなし03〜
昭和58年(1983年)、瀬戸内寂聴は蓼科を訪れます。目的は、『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』を書くにあたって、北原白秋の二番目の妻、章子(あやこ)について取材するためでした。

歌人であり詩人でもある章子(本名江口章子)は、最初の妻である俊子と別れ、姦通罪ですっかり人気を落とし、仕事もなくなってしまった白秋を支えました。長い困窮生活を経て、やっと収入にも恵まれるようになったとき、小田原に初めて建てた家の祝宴の日に家出をしてしまいます。理由は、白秋の編集者との駆け落ちといわれ、その後白秋のもとへ戻ることはありませんでした。

そのとき章子を支えたのが歌人の柳原白蓮でした。二人がどういう経緯で知り合ったのかは定かではありませんが、白蓮が筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門と暮らしていた別府の銅御殿にも、宮崎龍介と一緒になってから持った蓼科の別荘にも、章子は滞在しています。

昭和8年、精神を病んで入院した章子は、退院後、蓼科にある白蓮の別荘で静養しました。このとき、白蓮のすすめもあり、小さな庵を建てて観音堂(蓼科 親湯温泉ガーデンにて現存)にするという計画が持ち上がりました。翌年、章子は当時の夫である芳春院聚光院の住職中村戒仙とともに観音寺を建立。このとき旅館美遊伎の主人(後の親湯温泉初代社長:栁澤幸衛)や女将が尽力してくれたこと、そのお礼に旅館美遊伎の女将(後の親湯温泉初代女将)を京都に招待して見物させたことなどを、章子は手紙に書き残していました。

昭和58年(1983年)に、蓼科を訪れた寂聴は、当時の様子を知るために旅館美遊伎を探しました。そして旅館美遊伎を経営していた主人が、親湯(現在の蓼科 親湯温泉)を経営していることを突き止めます。そして寂聴は、親湯を訪れ栁澤幸男氏(親湯温泉2代目社長)を訪ね、当時の様子を取材しています。
「川を渡ると、すぐ温泉プールがあり、ホテルは宏壮でモダンだった。」
「親湯の社長の栁澤幸男氏は、快活で磊落な方だった。気易くざっくばらんな対応で、何でも話してくれる。」
その日は、あいにく旅館美遊伎の主人であった栁澤幸衛(親湯温泉初代社長)は東京に行っており、また、取材の目的でもあった女将はすでに亡くなっていました。幸男氏は、観音堂を建てるにあたって村人の誰もが賛成し、期待する雰囲気だったこと、戒仙は堂々としていて立派な人で、よく親湯にも宿泊していたことなどを話してくれたと書かれています。さらに寂聴は、観音堂の場所を教えてもらい、その日のうちに訪れました。

瀬戸内寂聴の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』は1984年に発表。白蓮や章子、そして寂聴も引き寄せられるように訪れた親湯(蓼科 親湯温泉)は、古くから多くの歌人や小説家に愛されてきた文学ゆかりの宿であることがわかります。