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〜瀬戸内寂聴のおはなし01〜
瀬戸内寂聴というとどんなイメージがあるでしょうか。穏やかに人の道を説く尼僧、さまざまなジャンルの名作を残した作家、そして、自分の感情に正直に生き続けた女性・・・多彩な顔を持ち、多くの人たちに多大な影響を与えた瀬戸内寂聴も、蓼科 親湯温泉を訪れた作家のひとりです。今回は瀬戸内寂聴の人生を紹介します。

瀬戸内寂聴は、大正11年(1922年)に徳島県徳島市に誕生。仏壇店を営む三谷豊吉、コハル夫妻の次女で晴美と名付けられました。晴美は身体が弱く本を読むのが好きで、小学生のときは、担任教師から文学の課外授業を受けたのをきっかけに、北原白秋、島崎藤村の詩を知り、小説を読み始め、大きくなったら「小説家になります」と書いたといいます。また、そのころ、父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したことで、瀬戸内姓に改姓しました。

徳島高等女学校卒業後は、東京女子大学に進学。昭和18年(1943年)、大学在学中に酒井悌と見合い結婚し、夫の勤務地である北京に渡ります。酒井悌は、北京の師範大学で中国古代音楽史を研究している徳島出身の9歳上の学者でした。翌年、女の子を出産。終戦後昭和21年(1946年)に帰国し、3人で徳島に引き揚げました。

けれども晴美は夫の教え子である文学青年と恋に落ち、昭和23年(1948年)2月に、夫と3歳の娘を捨てて出奔。京都で生活を始めました。けれども夏には青年とも別れ、昭和25年(1950年)には、離婚も成立。その間大翠書院や図書館などで働いていました。

小説を書き出したのは、同年4月に父豊吉が死んだあとのこと。少女雑誌に投稿を始め、『少女世界』に『青い花』が掲載され原稿料を得るようになると、昭和26年(1951年)には、本格的に小説家を目指して上京。三鷹に下宿して、少女小説や童話を『少女世界』や「ひまわり』などに書きました。小説家・丹羽文雄を訪ねて『文学者』の同人となり、妻子ある小説家小田仁二郎と出会い、それから昭和36年(1961年)まで不倫関係が続きました。

昭和31年(1956年)には、『文学者』が解散され、小田が主宰する同人誌『Z』に参加。そして、同年、処女作『痛い靴』を『文学者』に発表しました。翌年「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮同人雑誌賞を受賞。けれども、その後『新潮』に発表した『花芯』が、ポルノ小説であると酷評され、その後の数年は文芸雑誌からの依頼はなくなります。その年には、『Z』も解散。翌年から小田仁二郎らと同人誌「無名誌」を始めました。

自分の心に赴くままに、波乱に満ちた人生を送りながら、執筆活動を続けてきた瀬戸内寂聴。彼女の人生はまだまだ続きます。
→次回も瀬戸内寂聴の人生を紹介します。