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〜蓼科周辺にゆかりのある文人のおはなし 02〜

新田次郎が気象庁観測部を早期退職したのは、昭和41年(1966年)のことです。定年まであと6年というところでの退職であったため、本人も相当悩み、また周囲からは慰留を受けましたが、それからは小説家一本の生活に入ったといいます。

翌年には、富士山頂の富士山測候所に台風観測のための巨大レーダーを建設する様子を描いた長編『富士山頂』を発表。その後も、登山家の「加藤文太郎」の生涯を題材とした『孤高の人』、多数の犠牲者を出した青森県八甲田山における山岳遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材とした『八甲田山死の彷徨』、明治時代末期に陸軍参謀本部陸地測量部(現在の国土地理院)によって飛騨山脈の立山連峰で行われた山岳測量プロジェクトを描いた『劒岳 点の記』などを執筆。また、退職前から執筆していた歴史小説『武田信玄』を書き上げました。

そして、昭和49年(1974年)には、「武田信玄、ならびに一連の山岳小説に対して」第8回吉川英治文学賞を、昭54年(1979年)には紫綬褒章を受賞しました。

昭和55年(1980年)に、心筋梗塞のため急死。享年67歳でした。

新田次郎は気象台に勤めていたこともあり、山や地形、そして気象に関する筆致がとてもリアルで「山岳小説家」の代表とされますが、本人はそうレッテルを貼られることを嫌っていたといいます。数ある小説の中で本人が気に入っていたのは『武田信玄』で、続編として『武田勝頼』を執筆。さらにその続々編『大久保長安』の執筆途中に亡くなってしまいました。

また、故郷である諏訪周辺を題材にした作品もたくさん書かれています。中でも、多感な少年時代を過ごし、自然観の原点となった霧ヶ峰を舞台にした『霧の子孫たち』は、自然と人間との関係を問い直した名作。高原植物の群生する霧ヶ峰に降りかかった道路計画建設反対に立ち上がった地元有志たちの闘いを描いたものです。主人公は旧制諏訪中学の一級先輩だった考古学者の藤森栄一がモデルとなっているといわれます。

現在、諏訪市図書館では新田次郎記念室を設け、吉祥寺の自宅2階にあった書斎を再現。新田次郎の蔵書のほか、登山時に使用したピッケルなどの遺品、取材ノートや執筆原稿などが展示されています。隣りには、藤原咲平コーナーがあり、功績や遺品を展示。藤原咲平は、新田次郎の伯父であり、気象学者で中央気象台長を務めた人でした。この人こそが、新田次郎に中央気象台の仕事を勧めたといわれています。

新田次郎の墓は、諏訪市の正願寺にあります。正願寺には、初夏には美しいあじさいが咲き誇り、多くの人が訪れます。

→次号も蓼科周辺にゆかりのある文人についてご紹介します。

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