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〜蓼科周辺にゆかりのある文人のおはなし 01〜

昭和初期、文人たちの憧れの地としてその名を知られていた蓼科。手つかずの自然が生み出す美しい山岳風景は多くの人の心をとらえ、和歌や俳句、小説などの題材となりました。さらに蓼科周辺の地域にも文人や芸術家たちのゆかりの地が多くあります。中でも、諏訪市出身の新田次郎は中央気象台に勤めるかたわら執筆活動を行う小説家で、数々の名作を残しました。

大正元年(1912年)、新田次郎は諏訪市上諏訪角間新田(かくましんでん)で、父親・藤原彦、母親・りゑの次男として生まれました。名前は藤原寛人(ひろと)。霧ヶ峰を遊び場にすくすくと育ち、大正14年には県立諏訪中学校(現在の諏訪清陵高校)へ入学。歴史部を作り、この頃にはすでに石器や土器を発掘することや歴史を学ぶことに興味を持っていたといわれます。昭和5年(1930年)には上京し、無線電信講習所本科(現在の電気通信大学)へ入学。卒業後の昭和7年(1932年)には中央気象台(現在の気象庁)に就職し、これから5年ほどの間は富士山観測所に勤務しました。

昭和14年(1939年)に茅野市出身のていと結婚し、昭和18年(1943年)には、満州国(現在の中国東北部)中央気象台口に、高層気象課長として赴任しました。けれども、2年後には終戦を迎え、軍人ではなかったものの家族と別れてソ連軍の捕虜となり、その後中国共産党軍で一年間の抑留生活を送ることになります。この時、妻のていは子供を連れて38度線を歩いて超えて帰国しました。

新田次郎が満州から帰国したのは、昭和21年(1946年)のこと。気象台に復職するものの、気象台の組織が混乱していたため、給料も少なく困窮していました。そこで、昭和23年(1948年)ごろから、アルバイトとして理科の教科書、特に気象関係の執筆を開始。また、この頃『超成層圏の秘密』『狐火』を書きましたが、活字になりませんでした。

翌年、妻のていは、満州からの引き揚げの記録を小説『流れる星は生きている』を書き、ベストセラーに。これが刺激となって小説を書き出し、昭和26年(1951年)「サンデー毎日第41回大衆文芸」で『強力伝』が現代の部一等に入選。その後は、丹羽文雄氏主催の「文学者」の同人になりました。

その後の活躍は目覚ましく、昭和30年(1955年)、少年時代に祖父から聞いた日本狼の話をまとめた『山犬物語』が「サンデー毎日第47回大衆文芸」に入選。さらに、『孤島』が「サンデー毎日30周年記念大衆文芸懸賞小説」に1等入選しました。翌年には、『強力伝』にて、第34回直木三十五賞を受賞。

それからしばらくは、科学小説、時代小説、ジュニア小説、SF、山岳小説、メロドラマ等、多方面の短編小説を手掛けましたが、昭和34年(1959年)ごろになると、山岳小説、推理小説を中心に執筆活動を展開するようになりました。

その一方で、気象職員の仕事も続け、昭和30年(1955年)、無線ロボット雨量計の発明により、運輸大臣賞を受賞。昭和38年(1963年)~昭和40年(1965年)には、当時世界最高(高度)・世界最大であった富士山気象レーダーの建設責任者となって貢献しました。

小説家として、気象庁の職員として活躍してきた新田次郎ですが、親湯(現在の蓼科 親湯温泉)にも立ち寄り、温泉プールを楽しんだという記録も残っています。。蓼科 親湯温泉にもゆかりのある新田次郎。新田次郎の活躍はまだまだ続きます。

→次号も蓼科周辺にゆかりのある文人についてご紹介します。

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