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〜伊藤左千夫のおはなし 05〜

明治42年、篠原志都児(しずこ)とともに、親湯(現在の蓼科 親湯温泉)に滞在した伊藤左千夫は、「蓼科山歌」を志都児に贈りました。けれどもこの頃になると志都児の歌の発表は極端に少なくなっていきます。『比牟呂』の休刊、『馬酔木』の遅刊、そして志都児自身の2度目の結婚が上手くいかなかったことなどが原因とされていますが、親しい友が次々と亡くなったことも影響していたのかもしれません。そして左千夫も同様に発表数が減っていきました。

昭和43年、志都児は矢崎かなえと3度目の結婚をして、翌年1月には長男が生まれました。けれども左千夫からも祝福の歌をもらいながら、5首を発表しているだけにとどまっています。その年の9月には湯田中温泉に左千夫を訪ね、その後一人で野尻湖を旅して、このときの歌を12首、その後『親ごころ』5首を発表しました。

木曽藪原に左千夫を訪ねたのは昭和45年秋のことです。左千夫とともに紅葉を楽しみ、鳥居峠の捕鳥網を見て帰りますが、このときの歌は一首も残っていません。そしてこの旅が左千夫と志都児の最後の別れとなってしまいます。大正2年7月30日、左千夫は脳溢血で急逝。志都児は茅場町に駆けつけることもせずに部屋に閉じこもり、仲間たちからの働きかけにも一切答えず、一人で追悼歌を詠んだといいます。

そして、悲しみにくれる志都児にさらなる別れが訪れます。その年の暮れに次男が生まれましたが、妻は産後の肥立ちが悪く、翌年1月に父と妻を同日に亡くします。乳飲子を抱えたまま暮らせないため、かなえの妹かねと4度目の結婚。けれども、翌年には最愛の妹とせが亡くなってしまいました。

その年の大晦日の日記には「歳晩所感其苦痛なる歳晩」の一行がありました。それからの志都児は奥座敷の炬燵に綿入れのどてらにくるまり、丸くなっているばかりだったといいます。

大正6年秋には、志都児本人が腸結核となり、東京の大学病院で手術を行い、修善寺温泉で冬を越します。妻を実家に戻し、その後は東京で療養しますが思わしくなく、郷里の病院で7月19日にこの世を去りました。享年38歳。左千夫が亡くなってからというものほとんど歌を作っていませんでしたが、亡くなる年には『アララギ』に24首や『犬蓼』13首の歌を残していました。

志都児は23歳から歌を作り始め、左千夫に出会うことで歌の世界が広がり、名作を生み出し続けました。また、実家のある蓼科に招くなど左千夫にも多大な影響を与えた人物でもあります。篠原志都児家が所蔵する書簡の中には、左千夫からの封書やハガキは特に多く残り、師弟は強い絆で結ばれていたことが分かります。

志都児が生まれ、左千夫が愛した蓼科。二人が何度も訪れた蓼科 親湯温泉は、文化の発信地となっていた当時の様子を今に伝えています。

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