お知らせ

〜伊藤左千夫のおはなし 04〜

明治37年11月、伊藤左千夫は篠原志都児(しずこ)の家に3泊し、交流を深めました。それをきっかけに蓼科に度々訪れるようになりますが、当時の左千夫は明治36年(1903年)6月に根岸短歌会の機関紙『馬酔木(あしび)』の編集に携わるなど、正岡子規亡き後、写生を発展させるために精力的に活動していました。その半年前には信州で、諏訪出身の島木赤彦、岩本木外が歌誌『比牟呂』を創刊。赤彦と木外は『馬酔木』にも短歌文章などを投稿し左千夫の指導を受け、また『比牟呂』を左千夫に贈って選歌も頼んでいたといいます。

志都児は、赤彦が玉川小学校の宿直室に開いた禰牟庵(ねむあん)で文芸に親しみ、数々の歌会で活発に詠歌に励みました。そして、左千夫が志都児の家に初めて宿泊してからというもの、左千夫は何度も志都児の元を訪れ、また志都児も上京して左千夫を訪ねたり、時にはともに旅行をしたりするなど、2人は交流を深めていきました。

左千夫は志都児について次のような歌を詠んでいます。

「世の中の無口志都児は夜もすがら吾がかたらくをうんうんと聞く」

志都児は無口であったようですが、歌の批評を雑誌に投稿したり、柳沢黙坊らと歌の批評をし合ったり、左千夫と志都児はお互いの作歌を磨き、次々と歌を発表していきました。

また、蓼科の北山同人の一人両角福松は、志都児の追憶文で、

「彼の歌は、歌を作るのでなくて、歌が自然に生まれるのであった。そして彼の歌は時流にも染まず常に平淡素朴の地味の歌であって、単調平凡、稚気を脱せぬやうではあるが、其の中に掬すべき現実味があるのは、彼が一家をなさんとした特色である。

歌に全力を集中した彼は、師の旅を見ならい、殆ど席の暖まる隙もない程に旅行を続けた。これは新しい自然との出合い、人との出会いを求めて歌を生むための旅であったろう。」

と述べています。

明治42年2月、志都児は左千夫とともに親湯(現在の蓼科 親湯温泉)に数日滞在しました。このとき左千夫は「予は蓼科山に老いを籠らむと思ふ心いよいよ恋ひまさりぬ。」と書き、23首の作品中名吟10首を清書した「蓼科山歌」を志都児に贈りました。

左千夫に師事するようになってから盲目的に師の足跡をたどり、全力を挙げて作歌に熱中した志都児。そして、志都児を通じて出会った蓼科の地を5回も訪れ、名作を残した左千夫。師弟は特に強い絆で結ばれていたことがわかります。親湯(蓼科 親湯温泉)には、左千夫や志都児のほか、多くの歌人が宿泊しただけでなく歌会も行われ、当時の文化の発信地となっていきました。

→次号も伊藤左千夫についてご紹介します。

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