お知らせ
〜伊藤左千夫のおはなし 03〜
正岡子規の意志を継いで「写生」を継承して和歌や小説を生み出し、またアララギ派の中心となって後進の育成に力を注いだ伊藤左千夫。門下からは、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明など多くの大歌人を輩出しました。その中の一人である篠原志都児(しずこ)は、まさに左千夫と蓼科を結び付けた人物。蓼科が文学の中心となるきっかけを作ったにもかかわらず、残念なことに地元でもその功績はあまり知られていません。
篠原志都児(本名は圓太)は明治14年(1881年)、蓼科山麓の北山村湯川に生まれました。明治33年(1900年)に同級生の娘を妻に迎えましたが、妻が病のため2年後に協議離婚をし、まもなく妻は死去。理想の妻との別れで志都児の性格は一変し、感傷的な憂うつ歌人になったといわれています。
妻と離婚の後、明治36年(1903年)、赤彦のすすめなどで『心の華』に2月から10月に18首が、さらに『比牟呂』2号に3句、1首が「千州(ちしゅう)」の号で初めて発表されました。左千夫との出会いは、明治37年(1904年)2月のこと。日露戦争に志都児が招集されたことがきっかけとなっています。雑誌掲載などで早くから志都児に注目していた左千夫は、このとき数々の励ましと文人としての心構えを教え、諭し、さらに『征露を励ます歌』『九連城大勝の歌』などの書簡を贈りました。盛大な見送りを受け出征したものの、6月には病のために送還され病院に収容。そんな中8月に見舞いに訪れたのが左千夫でした。志都児は初の対面に感激し、これが歌の師を決定づけた出会いとなったといわれています。しかし、その3日後に召集解除となり、故郷に帰りづらくなった志都児は左千夫の自宅「無一塵庵」を訪ねて3連泊し、交流を深めました。
その後、志都児は郷里に帰り、療養をしながら両親の農業を手伝い、歌の友を訪ねるなどして、歌の研鑽に励んでいました。そして11月25日、志都児は左千夫を迎え、上諏訪の布藩旅館で歌会を開催しました。十数人が集まった歌会は大いに盛り上がり、徹夜で歌を詠んだといいます。27日には山百合(赤彦)、志都児、竹舟郎(両角竹舟郎)、柳之戸(両角福)と左千夫の5人で蓼科の親湯(現在の蓼科 親湯温泉)で2泊し、29日には志都児は左千夫を誘って自宅に案内しました。志都児の両親から温かなもてなしを受けた左千夫は12月2日まで滞在しました。
「蓼科や御湯湧きたつ湯の川にうてるやまめか水ぬるみ生せる芹かも
ねもころにうまらに煮しを雪霜の夜辺のあつもの後もふらんか」
篠原千州の家に宿りて 左千夫
これは、志都児の家に滞在中の11月29日の夜、左千夫が白扇に残し、志都児に贈った長歌です。この滞在をきっかけに、左千夫は志都児を含む北山の同人との絆は深まり、その後も何度となく左千夫は蓼科を訪れました。