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〜伊藤左千夫のおはなし 02〜

「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」

伊藤左千夫の歌で最も有名なものの一つが『牛飼いの歌』です。この歌を詠んだ頃、左千夫が牛乳搾乳業者で、牛を育てて生乳を宅配する仕事をしていました。身分や出自によらず誰もが自由に歌を詠むことで新しい短歌が生まれるという、正岡子規の精神を込めた一首です。左千夫は子規の死後もその意志を継いで「写生」を継承し、弟子たちの育成にも力を注ぎました。現在も子規が知られているのは、左千夫の功績のひとつであるとも言われています。

明治36年(1903年)、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を創刊。左千夫は編集にも携わりました。また、この頃から小説を書き始め、「隣の嫁」「春の潮」「紅黄録」など数々の名作を残しています。特に左千夫が初めて書いたといわれる小説『野菊の墓』は、明治39年1月『ホトトギス』に発表。写生文の影響を受けた小説は、夏目漱石にも絶賛されるなど、高く評価されました。

『馬酔木』終刊後は、短歌のほか、小説、西洋文学や批評なども掲載する総合文芸雑誌『アカネ』が創刊されますが、左千夫は離反。自宅を発行所として明治41年(1908年)に『阿羅々木』を創刊しました。翌年、島木赤彦が創刊した『比牟呂』と合併し、『アララギ』と改題されました。

左千夫が蓼科を訪れるようになったのは、この頃です。左千夫に最初に蓼科を紹介した篠原志都児は、雑誌「比牟呂」41年2號(明治41年(1908年)5月31日)の志都児記 『北山短歌會』で、「一月廿九日、都の左千夫先生を迎へて黙坊柳乃戸竹舟志都児等合して五人巌温泉に向ふ…蓼科の山颪背に浸み渡つて寒さ限りなし。一浴して各親湯所見一題を作る。」と書いています。

また、左千夫も明治42年(1909年)9月9日『國民新聞』にて「信州蓼科山中より一筆申上候。こゝの湯は巌温泉と申候。近く八ヶ岳の連山を見、遠くは甲州の駒ヶ岳、木曾の御嶽を望み、海抜五千尺以上の地點に於て霊泉汪湧海の如くに候。湧泉の盛なること思ふに海内に比類なかるべく候。玆に靑天井を眺めて湯につあり居るは悪くはなく候。」と綴っています。

「巌温泉」とは現在の蓼科 親湯温泉のこと。同年、左千夫は巌温泉で蓼科の魅力を10種の歌『蓼科山歌』にし、志都児に与えました。

左千夫は、大正2年(1913年)に50歳の若さで亡くなりました。『万葉集』を尊重し、「写生」を強調。早くから短歌の「連作」を提唱し、晩年は調べに現れる純粋な感動を重んじる「叫びの説」を唱えた伊藤左千夫。また、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明ら多くの歌人を育てたその功績は大きく、近代短歌史を語る上で欠かせない人物となっています。

→ 次号も伊藤左千夫についてご紹介します。

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