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〜伊藤左千夫のおはなし 01〜

「信濃には八十の郡山ありといえど女の神山の蓼科われは」

女神湖の湖畔に立つ女神像の台座に伊藤左千夫の歌が刻まれています。これは、蓼科に魅せられた左千夫が歌った『蓼科山歌』の中の1首。美しい円錐形で、別名「諏訪富士」ともよばれる蓼科山の優美な姿を讃えています。

伊藤左千夫は、元治元年(1864年)9月18日、上総国武射郡殿台村十八番屋敷(現在の千葉県山武市殿台)の農家の末子として生まれました。父である良作は、上総道学の流れをくむ漢学者であり、同時にまた和歌にも精通。末子でもあったことから、母親には格別の愛情をもって育まれ、幼少時代は自由に伸び伸びと過ごしたといわれます。

明治5年(1872年)に学制が発布されると、翌年には殿台村にも小学校が開設され、満10歳だった左千夫も論語・大学・文章規範・唐詩・日本外史・日本政記等を勉強。さらに小学校卒業後は直ちに佐瀬春圃の私塾で学び、正義感の強く論争好きな青年へと成長していきました。明治14年(1881年)には、政治家を目指して明治法律学校(現明治大学)に入学しますが、間もなく眼病を患い、学校を中退し帰郷しました。

明治18年(1885年)に家出をして再度上京。政治家を諦め、実業家になるべく東京市佐柄木町二十一番地の牧場「豊功舎」で毎日早朝から深夜まで18時間も働き、明治22年(1889年)4月1日にはついに独立して牛乳搾取業「乳牛改良社」を本所区茅場町三丁目十八番地(現在の墨田区江東橋三の五の三、総武線錦糸町駅のあたり)に開業。その年の年末には伊藤重左衛門の長女とくと結婚、翌年には長男剛太郎が誕生しました。

牛乳搾取業が軌道に乗ったことで、生活にゆとりのできた左千夫は、明治26年(1893年)ごろから同業者伊藤並根から茶の湯や和歌を学ぶようになりました。明治31年(1898年)、新聞「日本」に歌論を投稿し、紙上で正岡子規と論争し、このとき子規の論に感銘を受けた左千夫は、明治33年(1900年)1月2日、子規宅を訪問。これがきっかけとなり子規を師とする左千夫の新たな人生が始まりました。

左千夫は、子規の唱導する万葉を基調とする「写生」の道をひたむきに進みましたが、明治35年(1902年)に子規は闘病の末永眠。その後も左千夫は子規を研究し、また、子規に変わって根岸短歌会をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、「写生」の教えを継承。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成しました。

蓼科出身である篠原志都児(しずこ)も左千夫の弟子のひとりでした。また、志都児は左千夫を初めて蓼科へ連れて行った人物でもあります。蓼科をとても気に入った左千夫は、明治42年(1909年)「蓼科山歌」10首を蓼科 親湯温泉で詠み、志都児に与えました。その後も何度も蓼科で歌会が開催されるようになり、蓼科は文化の発信地、人々の憧れの地となっていったのです。

→次号も左千夫の晩年について紹介します。

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