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〜小堀杏奴のおはなし 03〜

疎開のために蓼科へやってきた小堀杏奴と子供たち。戦後は夫の四郎が蓼科の大自然に魅せられ一人残り十年も暮らしていました。小堀一家の蓼科での生活をサポートしていた蓼科 親湯温泉の二代目社長である柳澤幸男とは家族ぐるみで交流をもち、いつしか「蓼科に暮らす子どもたちのために教育の場を設けたい」という幸男の思いも共通の願いとなっていました。

蓼科でも北山小学校の分校を建てるという話が持ち上がったのは、戦後まもなくのこと。分校建設委員会が設立され柳澤幸男はその中心となって、国へ申請するための校舎の規模や児童数などを決めました。分校の話を聞いた小堀四郎は「吉田松陰を見習いなさい。八畳間から明治維新の偉人を送り出したではないか。教育は少人数に限る。」と話したといいます。このことが参考になり、小規模ながらも質の高い教育を行うという方針が定められました。

教育委員会は、規定通り先生1人の配置を決めましたが、もう1人ほしいということで、小堀四郎が富山県氷見市の小学校教員である武内雷龍を紹介。もともと森鴎外の研究をしており、また歌集も出版していた雷龍は杏奴とつながりがありました。

「ある日、杏奴先生からのお手紙に驚いた。こんど蓼科高原に小学校の分校が出来ることになった。その先生に武内さんを推薦したいという内容であった。設立の中心になって献身的に働いているのは親湯温泉の若主人であるとのこと。詳しいことは蓼科高原にいる主人からお知らせします、ということであった」(『めぐりあい』武内雷龍より)

しばらくすると四郎からも連絡があり、雷龍は昭和27年の3月に蓼科高原行きを決行しました。その時の旅費や宿泊費は幸男が全て手配してくれ、雷龍は「かつてこのような行き届いたやさしい対応をされたことは一度もなかった」と綴っています。

蓼科にたどり着いた雷龍は四郎のアトリエを訪れ、その後四郎とともに親湯へと向かい、幸男とともに3人で食事をしながら談笑したといいます。「夜、すっかり私と仲良しになっていた幸男氏夫妻のお子さんたち、洋子さん、日出夫君、幸子さんの小学生と、入浴に来られた小堀先生とで、温泉に入った。親湯の温泉は人肌程度で滝のように流れ続けていた」(『めぐりあい』武内雷龍より)

四郎と幸男による温かいもてなし、そして多くの文人の心をとらえた蓼科の大自然に魅せられて、雷龍は蓼科が第二の故郷になると確信したと書いています。

こうして、着々と準備が進められ1953年6月1日、北山村立北山小学校蓼科分校の開校式が行われました。児童は11人。総工費は300万円かかり、そのすべてを幸男が負担。また、雷龍の給料や住まいも幸男が準備しました。ちなみに村からのお祝い金は200円だったといいます。

小堀夫妻と柳澤幸男が念願かなって建てた北山村立北山小学校蓼科分校は、その後多くの優秀な人材を輩出し、後の蓼科の発展に貢献したといいます。

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