お知らせ

〜小津安二郎監督のおはなし 02〜

当時の蓼科における小津安二郎監督と脚本家の野田高梧らの暮らしぶりは、『蓼科日記抄』に詳しく書かれています。読むほどに、蓼科という雄大な自然の中で、名作を生み出すだけでなく、多くの映画人を招き、また地元の人たちとも深く交流している様子が分かります。2人が家族や客人とともによく立ち寄った喫茶店「蓼科アイス」、雑貨店「一久」のほか、「親湯(親湯温泉ホテル)」として蓼科 親湯温泉の名前も度々登場し、親交の深さが感じられます。

『蓼科日記抄』には、「親湯の道をぶらつき――」「親湯まで散歩、山の小径を通って帰荘」と「親湯の方へブラブラゆく」など、「親湯」の名が随所に記され、頻繁に「親湯」の方まで散歩に出かけ、温泉やプールを楽しんでいた様子が分かります。

昭和二十九年八月二十一日(土)
「朝、親湯へいく。来て初めての入浴なり。湯瀧に打たれ、プールで泳ぐ。」
当時、蓼科 親湯温泉には温泉プールがありました。温泉プールは夏場以外でも泳げるため、オリンピック選手が訪れて練習に励んでいたといいます。珍しい温泉プールは全国的にも知られ、その人気は、蓼科湖まで車の渋滞が出来るほどでした。当時の「親湯」の名物であった温泉プールには小津や野田も何度となく訪れ、地元の人たちとも交流していました。

昭和三十一年十月二十四日(水)
「朝から雨、一同無為、徒らに読書に耽ける。利市君、徳郎君より傳言なりとて二十六日午後二時よりの親湯新築祝ひへの招待の内諾を得たき旨話あり。」
小津と野田が散歩の際に立ち寄っていた「親湯」は、新築祝いに招待されるほど親しい間柄でした。利一君(両角利一)は湯川の住人で「雲呼荘」などの管理人を、徳郎君(柳澤徳郎)は、「無藝荘」の世話や管理を務めた人です。小津と野田はこの両名と深い交流をもち、昭和三十一年に行われた地元の御柱祭のときには、両名の家で大歓迎を受けたことが記されています。また、徳郎の息子である徳一は、当時「親湯温泉ホテル」の社員だったという縁もありました。

その他、「親湯」の増築の際に出た石垣用の石を購入したり、台風の際、「親湯」に出水の恐れがあったときには、宿泊客はとても心配だろうと語り合ったことなども記されています。中には、「親湯」でのどろぼう騒動の話などもあり、仲間内として気にかけている様子も伺えます。

『蓼科日記抄』からは、東京出身の小津が蓼科という土地とそこに暮らす人々をとても気に入り、また尊敬にも似た感情を持って接していたことがわかります。地元のお祭りや小学校の運動会なども見に行ったという小津。蓼科の自然に包まれ、人々の中に溶け込みながら暮らした7年間はこれまでにない体験も多く、その間の脚本づくりに多大な影響を与えたのではないでしょうか。

次回も、『蓼科日記抄』をもとに小津のエピソードをご紹介します。

Category

Archive