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土屋文明のおはなし01

アララギ派には、伊藤左千夫をはじめ斎藤茂吉、島木赤彦など、日本を代表する歌人がいました。彼らは、歌会を行うために何度となく蓼科に集まり、多くの名作を生み出してきました。土屋文明もその一人。歌誌『アララギ』の編集発行人としても活躍した、重要人物です。
文明は、明治23年(1890年)9月18日に、群馬県群馬郡上郊村(現在の高崎市)の貧しい農家に生まれました。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)在学中から蛇床子(じゃしょうし)の筆名で俳句や短歌を雑誌『アカネ』『ホトトギス』に投稿。明治42年(1909年)伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け短歌結社『アララギ』に参加しました。

当時文明は、左千夫の牛舎で働きながら文学を学ぼうと考えていたようです。けれども、早いうちから文明の将来性を見抜いていた左千夫は文明に短歌を指導するだけでなく、多くの歌人に引き合わせました。また、明治42年(1909年)には、左千夫が学費を支援し、文明は第一高等学校に進学。この時期に、左千夫は文明を伴い、蓼科の地を訪れ、蓼科 親湯温泉にも滞在したといわれます。さらに、大正2年(1913年)には東京帝国大学(現在の東京大学)へと進学しました。左千夫はこの年の7月30日に亡くなりましたが、文明は左千夫に感謝する気持ちを一生忘れることはなく、左千夫に関連する短歌を200近く詠みました。

「左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし」

『山谷集』城東区、昭和8年

「過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生」

『続青南集』角館田沢湖、昭和40年

「喜びて得意にて歌なほし下されし左千夫先生神の如しも」

『続々青南集』集を終らむとして、昭和48年文学の師としてだけでなく、人間的にも左千夫を尊敬し、慕っていた文明。二人が一緒に過ごした時間は五年余りでしたが、その時間はかけがえのないものであり、左千夫に出会わなければ、文明は全く違った人生を歩んでいたことが分かります。

東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、小説・戯曲を書きました。大正5年(1916年)に文学部哲学科(心理学専攻)卒業。翌年に『アララギ』の選者となり、大正7年(1918年)には、島木赤彦の紹介で、諏訪高等女学校(現在の諏訪二葉高等学校)に教頭として赴任。諏訪高等女学校や松本高等女学校(現在の松本蟻ケ崎高等学校)の校長を歴任しながら、作歌活動を続けていました。

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