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蓼科山のおはなし02

深田久弥の『日本百名山』の一つとして知られる蓼科山は、富士山のような美しい山容をもつことから、諏訪富士という名で愛されてきました。
この美しい蓼科山に魅せられた文人がたくさんいます。その中で最も有名な一人が、アララギ派の歌人、伊藤左千夫ではないでしょうか。
伊藤左千夫が蓼科を訪れたのは、弟子の篠原志都児(しのはらしずこ)が故郷である蓼科に連れてきたのがきっかけでした。蓼科を気に入った左千夫は、明治42年(1909年)に巖温泉(現蓼科 親湯温泉)に宿泊して「蓼科山歌」を詠み、この10首を志都児に与えました。『蓼科山歌』では、美しい蓼科山、豊かな自然が息づく蓼科高原を賛美しているものばかりではなく、「老」「命」など、当時の左千夫の感情を蓼科の風景に重ねて歌われているのが特徴です。また、蓼科の風景は以後の彼の詩に大きな影響を与えたといわれています。
「思ひこひ生の緒かけし蓼科に老のこもりを許せ山衹」
「朝露にわがこひ来れば山衹のお花畑は雲垣もなく」
「久方の天の遥けく朗かに山は晴れたり花原の上に」
「秋草は千草が原と咲き盛り山猶蒼し八重しばの山」
「信濃には八十の高山ありと云えど女の神山の蓼科我れは」
「吾庵をいづくにせんと思ひつつ見つつもとほる天の花原」
「空近く独りいほりて秋の夜の澄み極まれる虫の音に泣く」
「山深み世に遠けれや虫のねも数多は鳴かず月はさせども」
「淋しさの極みに堪て天地に寄する命をつくづくと思ふ」
「草の葉の露なるわれや群山を我が見る山といほり居るかも」
以来、左千夫はアララギ派の歌人を集めて何度となく蓼科で歌会を開催しました。それは、単に左千夫が蓼科を気に入ったというだけではなく、島木赤彦の存在が大きいともいわれます。諏訪出身の島木赤彦にとって蓼科は古くから馴染のある土地でした。蓼科へは歌会だけでなく、家族と一緒に訪れたこともありました。
「草枯丘いくつも越えて来つれども蓼科山はなほ丘の上にあり」
「湯のうへの岡にのぼれば眼近なり雪の残れる蓼科の山」
「うら枯の岡行く我に蓼科の外山草山夕日さびしも」
これは、島木赤彦が蓼科のことを詠った歌です。いずれも諏訪側から上り、蓼科高原の急勾配の丘(岡)の様子が詠われています。巖温泉(現蓼科 親湯温泉)がお気に入りの宿で、左千夫に紹介したのも赤彦だといわれます。そして、赤彦とともに、アララギ派の中心人物として歌会に参加したのが斎藤茂吉です。
「うつつにしはじめて見たる蓼科はわが眼前に雪降りにけり」
「蓼科はかなしき山とおもひつつ松原なかに入りて来にけり」
初めて蓼科山の姿を見たときの感動を詠ったものや、蓼科山の静けさにその時の茂吉の心情を重ねたものなど、さまざまな歌が詠まれています。
歌会には、他にもたくさんの著名な歌人が集まりました。その舞台となった蓼科 親湯温泉。美しい蓼科山の風景、時を超えてこんこんと湧き出る温泉とともに、ゆっくりと文学の世界を楽しむことができます。
