お知らせ
島木赤彦のおはなし03

大正2年(1913年)、島木赤彦は『馬鈴薯の花』を発刊した後、「写生」をつきつめ、「一心集中」や「鍛錬道」を提唱します。そして、大正9年(1920年)、島木赤彦は第二歌集『氷魚』を発行しました。
童謡を作り始めたのもこの頃だといわれます。長年教育者として多くの子どもたちと関わって来た赤彦にとって、教育と文学の原点となる童謡には特別な思いがありました。
「私には6人の子どもがある。私はその6人の子どもに向きあつてゐるといふ気持ちで童謡をつくる。私はかつて永い間小学校高等女学校等の教師を勤めた。私は学校で私の教へた多くの子どもに向きあうた心持を想ひ回しながら童謡をつくる。」
と、赤彦は第三童謡集の巻末に書いています。
赤彦の童謡作品は子どもに媚びるような軽薄な調子ではなく、子どもの目線に立ちながら、自然への感謝や命への敬意が表現されています。技巧や装飾に頼らず、ダイレクトに心に届ける作品の数々は、教育者であり、歌人として生きた赤彦だからこそ生み出すことができたといえるでしょう。
作品には『からす』や『月夜』『つらら』『山の家』『夜汽車』など、音楽がついたものがありますが、童謡集に音符をつけなかったため、残念ながら後世にあまり知られることはありませんでした。
赤彦は、大正13年(1924年)に第4歌集『太虚集』、大正15年(1926年)に第5歌集『柿蔭集』を発刊。童謡については、大正11年(1922年)に第一童謡集、翌年に第二童謡集、そして大正15年(1926年)に第三童謡集が発刊されました。
大正15年(1926年)、赤彦は胃がんのため下諏訪で亡くなりました。『アララギ』の一時代を築いた赤彦の功績は大きく、文学だけでなく、教育、児童文化まで深い影響を与えています。
文学の宿としても知られる蓼科 親湯温泉には、ゆかりのある文人たちをイメージしたスイートルーム蓼科倶楽部をご用意しています。島木赤彦のほか、伊藤左千夫、斎藤茂吉、土屋文明のスイートルームがあり、それぞれの人物や作品の世界を楽しむことができます。ぜひ赤彦の和歌や童謡の世界をたっぷりとお楽しみください。また、赤彦をはじめとするアララギ派の歌人が集まり、名作を生み出した歌会をイメージしたアララギ派スイートも人気です。




《島木赤彦スイート》
さらに蓼科周辺には、赤彦ゆかりの地がたくさんあります。島木赤彦誕生地跡碑(諏訪市元町)、赤彦が赴任した玉川小学校(茅野市玉川)、赤彦が結婚して養嗣子になった久保田家の旧家・柿蔭山房(下諏訪町北髙木)、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館(下諏訪町)など、赤彦の足跡を辿り、作品の世界に想いを馳せるのも楽しいでしょう。



