お知らせ
〜島木赤彦のおはなし01〜
アララギ派の歌人として幅広く活躍した島木赤彦。赤彦の歌は、教科書にも取り上げられ
、ご存じの人も多いのではないでしょうか。
アララギ派とは、短歌雑誌『アララギ』に拠る一派のことです。『アララギ』は、正岡子
規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を源流とし、伊藤左千夫や蕨真
一郎が『阿羅々木』として創刊。その後、赤彦が創刊した『比牟呂』と合併して誕生しま
した。このことから、赤彦はアララギ派の中でも中心的な人物であったことがわかります
。

赤彦は明治9年(1876年)12月16日、長野県諏訪地方に生まれました。幼少期から腕白な
がらも知性に優れた子供で、諏訪小学校高等科の卒業後は、諏訪育英会(後の諏訪中学校
)に入り和歌や俳句をたしなみ、明治25年(1892年)以降は、雑誌『少年文庫』に和歌や
新体詩を投稿するなど活躍しました。
明治27年(1894年)に、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に進学。学内では文
芸活動の中心的存在となり、短歌や和歌、『万葉集』に親しむほか、島崎藤村に傾倒し詩
作活動も活発に行いました。『少年文庫』『文庫』『少年園』『早稲田文学』『小文学
』『もしほ草紙』や新聞『日本』などに短歌・新体詩を次々と発表。当時の赤彦は「写生
」の姿勢に目覚めて、新体詩人としての存在を確立していきました。塚原俊彦ではなく島
木赤彦の雅号をも用い始めたのもこの頃です。

明治31年(1898年)、師範学校卒業後は北安曇郡池田会染尋常高等小学校(現池田町立池
田小学校)で教員になり、その後さまざまな地域で教鞭をふるいました。また、同年、下
諏訪町高木の久保田政信の養嗣子として同家長女・うたと結婚しますが、4年後にうたが
死去。その妹と再婚しました。広丘高等尋常小学校で校長を勤めた際には、広丘歌会(広
丘アララギ短歌会)を開き、同校の教師であった中原静子らを育成しました。
明治36年(1903年)には、岩本木外らとともに『氷むろ』(後に『比牟呂』)を設立。そ
の半年後に『馬酔木(あしび)』を興した伊藤左千夫へ赤彦は「床払の祝」二首を送りま
した。これがきっかけとなり、赤彦は左千夫と親交をもち、以後『馬酔木』に短歌や歌論
を掲載。明治42年(1909年)8月、『比牟呂』は、『馬酔木』から『アカネ』『阿良々木
』を経て改題された『アララギ』と合併しました。
赤彦と交流をもつようになった左千夫は、赤彦が暮らしている諏訪や篠原志都児の故郷で
ある蓼科を訪れます。特に蓼科が気に入った左千夫は、北山村「巌温泉」(現在の蓼科 親
湯温泉)で何度となく歌会を開催。蓼科 親湯温泉では、赤彦や左千夫をはじめとする多く
歌人が歌や俳句を残していきました。
→次号は、引き続き赤彦の人生を紹介します。