お知らせ
〜蓼科周辺にゆかりのある文人のおはなし 04〜
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」

これは、福澤諭吉が明治5年(1872年)に書いた『学問のすゝめ』の冒頭の一文です。そして、人は生まれながらの貴賎上下の差別はないが、違いが出る原因は、「学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と書いています。これからの時代には学問が大切であること、全ての人が学問を学ぶことによって、不平等が是正し、平等な社会へと近づいていけると説いています。

福澤諭吉は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家、そして慶應義塾の創設者としても知られています。天保5年(1835年)豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士の家に次男として生まれた諭吉は、長崎や大阪で蘭学を学び、藩命により江戸へ出てからは蘭学塾(後の慶應義塾)を創設。さらに咸臨丸に乗り込み渡英しました。明治34年(1901年)に死去するまでは、東京で暮らしていました。

これだけを見ると福澤諭吉と信州とは何の関係もないと思われますが、実は諭吉の先祖は諏訪郡福澤村(現材の茅野市豊平区福澤)の人だという説があります。諭吉の墓は、東京都港区麻布に位置する善福寺にありますが、その横の記念碑には、「福沢氏ノ先祖ハ信州福沢ノ人ナリ・・」と、諭吉自ら書いた文が刻まれています。

信州といっても福澤という地は須坂市、松川町、坂城町、箕輪町など、11あるのだそうです。信州のどこなのかははっきりしていませんでしたが、近年の研究で、戦国時代に茅野市豊平区福澤に屋敷を構えた太郎左衛門善徳が、福澤諭吉の先祖の可能性が高いということになりました。そこで、平成23年(2011年)に「福沢諭吉翁 祖先発祥の郷」という石碑が、上川(かみかわ)に架かる前橋近くにある小さな公園に建てられました。

太郎左衛門善徳は武田勝頼の軍に参加して木曽義昌軍に敗れた後、松本を治めていた小笠原氏に仕え、小笠原氏と共に大分の中津へ移り住んだといわれています。諭吉の父、百助も中津藩に仕えていたことから、祖先の可能性が高いとされています。
石碑は高さ約1.8mで18cm角の柱状で目立つものではありませんが、横にはステンレス製の説明板があり、太郎左衛門善徳と諭吉のつながりが記されています。

さまざまな人物とゆかりのある蓼科とその周辺地域。これからまた新たな歴史が解き明かされたり、新たな文豪が生まれたり、ゆかりの人物も増えていくかもしれません。蓼科とその周辺地域はそんな歴史や文化、文学など、魅力溢れるところです。