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〜蓼科周辺にゆかりのある文人のおはなし 03〜

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

これは、堀辰雄の名作『風立ちぬ』の一節です。多くの人々に影響を与えた『風立ちぬ』は、映画化、ドラマ化、アニメ化されました。

堀辰雄は、昭和初期から中期に活躍した小説家です。明治37年(1904年)、東京で生まれ育ち、大正12年(1923年)の関東大震災で九死に一生を得たものの、母を亡くし、本人もショックと疲労で腹膜炎になってしまいました。波乱に満ちたその一年の経験が、その後の文学を形作ったといわれています。

長野県を訪れたのも、この年の8月のことです。室生犀星と共に軽井沢を訪れたのがきっかけでした。その後も、芥川龍之介の滞在先を訪ねたり、夏の間部屋を借りて過ごしたり、軽井沢へは何度となく訪れていました。

子供の頃から体が弱く、肺を患っていた堀辰雄は、昭和6年(1931年)の3か月間、富士見高原療養所のサナトリウムで療養しました。サナトリウムとは、長期的な療養(結核等)を必要とする人のための療養所のこと。富士見高原療養所では堀辰雄だけでなく、竹久夢二、横溝正史、藤沢桓夫など、多くの著名人が療養しました。

昭和10年(1935年)7月には、堀辰雄と同様に結核を患っていた婚約者の矢野綾子とともに富士見高原療養所で療養しましたが、病状が悪化した綾子は12月6日に死去。この体験が『風立ちぬ』の題材となったといわれています。序曲、春、風立ちぬ、冬、死のかげの谷の5章から成る小説は、綾子の死の翌年に序曲と風立ちぬが書き始められ、最後の死のかげの谷は、昭和12年(1937年)に軽井沢にある川端康成の別荘で書き上げられました。

『風立ちぬ』では、私(堀辰雄)と重い病に侵されている節子(矢野綾子)のサナトリウムでの生活が描かれています。豊かな自然が残る美しい景色を背景に過ごす二人の毎日は限られた時間や生と死の意味さえも超越し、幸福感に満ちています。これは、堀辰雄のたぐいまれな自然描写力によって、悲愴さや鑑賞が薄らぎ、美しく透明感のある作品が完成したといわれています。

平成25年(2013年)に公開されたアニメーション映画『風立ちぬ』は、スタジオジブリの宮崎駿監督が堀辰雄の作風や世界観に影響を受けて製作されたといわれています。内容は異なりますが、ヒロイン菜穂子は節子がモデル。菜穂子が入院したサナトリウムも富士見高原療養所です。また主人公堀越二郎の友達として堀辰雄も登場しています。

蓼科にほど近い富士見高原療養所で療養していた堀辰雄。もしかしたら、蓼科にも立ち寄っていたかもしれません。

→次号も蓼科周辺にゆかりのある文人についてご紹介します。

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