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思い切り体を伸ばせそうな大きなソファーに、どっしりとした暖炉。
客室に入ったとき、私はこっそりと息を呑んだ。
2人には広すぎるほどの部屋は、どこかのお金持ちが自分のために贅沢に設えた別荘のよう。
品があるのに心躍るインテリアから、高原リゾートならではの落ち着いた静けさが漂っている。
嬉しくて客室のあちこちを覗きながら、「こんなにいいと思わなかったな」というカレの呟きに、ひそかに頷いた。テラスに出ると、緑の間から清流が見える。
ほかにも、眺望がよく広い和室やちょっと豪華な和洋室、広縁付きのリーズナブルな客室があるのだそう。
私も、まさかカレが、こんなに雰囲気のいい宿を見つけてくるなんて思わなかったな。


彼をせかしていそいそと大浴場へ急ぐ。
カレから「ここは美肌の湯と評判だ」と聞いて、朝から楽しみにしてきたのだ。  
噂に聞くお座敷風呂は、本当に床が畳敷き。そんなことが可能なことにまず驚く。
畳の上を、あふれた温泉がざあざあと流れる様子は見もの。畳の足ざわりは、びっくりするくらい心地よく、ほっとあぐらをかくような気分で寛ぐ。

淡い青空の下できらめく露天に出ると、目の前に澄んだ水をたたえた清流が走り、こんもりと茂る森林から鳥の囀りが聞こえてくる。
じんわりと体を温める湯と、辺りに満ちるマイナスイオンに包まれて、心の底からリラックス。

今頃、カレは湯上がりのビールでも飲んでいるのかな。


「レストランにいた女の子、可愛いかったね」離れの貸切風呂に向かう途中、あえて無邪気に言ってみる。
チラリとカレの表情を盗み見た。カレはなんというか単純な性格で、私が別の女のコをほめる時、その下に潜む女らしい対抗心についてはまったく考えが及ばないようなのだ。
「うん、超可愛かった」と素直に頷いて、バカみたいだと思う。「一緒にいたカレもすごくかっこよかったね、男らしくて」。
目の端で、カレの顔が少し硬くなるのが見えた。

深まる夜、森に包まれた回廊は、灯籠の光に照らされて、まるで幻想の世界への入口のよう。
急に静かになったカレに先立って、風流な木造りの階段をすたすたと降りた。 自分のせいなんだから、私は知らない。
心地よいアロマが鼻をくすぐる。
つま先から頭まで、カラダのコリを的確にほぐす夢のようなタッチが気持ちよすぎて、頭がぼおっとする。さっき見た湯上がりの上気した自分が、とてもキレイに見えたおかげで、今の私はとても幸せな気分。
このホテルにいると、どうしてか自分がいつもより数段キレイで、魅力もあるような気がしてくる。

さっきは言えなかったけど、客室に戻ったら、カレに「ありがとう」を言わなきゃ。

カレの嬉しそうな顔を思い浮かべながら、私はうっとりとまどろんだ。


「入っちゃおうか?」「いいね!」
大浴場へ向かう途中、貸切露天が空いているのを発見! 
さっそく2人で、白い湯けむりをなびかせる檜の湯に浸かる。目の前には、心洗われるような緑のきらめきと、朝の光をたたえた静かな水面。
同じ場所でも昨夜とは異なる、清々しく晴れやかな風景が広がっている。時折吹くそよ風が、ほてった頬を冷やし、身も心も透き通りそうな心地よさを運んできた。

「また来たいな」湯のなかでつぶやくと、カレは約束するように、ギュッと手を握ってくれた。

朝寝したいという彼を客室に残して、ロビーで忙しい私。
お菓子や雑貨、服飾品などが並ぶ店内で、親湯の食事で使われる焼き物が揃うコーナーに吸い寄せられる。
夕食のときから可愛いな、と気になっていた食器を見つけて、思わず手に取った。
2つずつ丁寧に選んだ食器のうち、一組はカレ用、一組は私用。
料理はあまり得意じゃないけど、帰ったら、この食器を使ってとびきりの朝ごはんをご馳走してあげよう。

カレがチェックアウトの手続きを終える間、ロビーからの眺めをもう一度見に行く。
たった1日しか経っていないのに、その風景は何だかもう懐かしい。ちょっとしたすれ違いはあったけど、何もかも特別だったこのホテルは、すでに私の心に取り込まれているみたいだ。
今回はカレの奮発でスウィートだったけど、次は別タイプの客室に泊まってもいいな。
目の前の渓谷は、高原の光のなかで洗われたように色鮮やか。
また来る時まで、とどこまでもキレイな緑を心に刻み込んだ。


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「絶対に気に入るよ」。運転席のカレが、自信ありげに言った。ここは深い深い山の中。
高原の空気はピリッと清涼で、下界のけだるい空気とはひと味違う、爽やかな風が窓から滑り込んでくる。
ホテルへと続く一本道は、森のなかで緩やかなカーブを描き、どこからか渓流がほとばしるような水音を響かせる。 カレが選んだ宿ってどんなかな?
道の両脇であふれるような緑を眺めながら考えた。 女のツボを外さない宿選びって、けっこう難しいはず。

見ているだけで、吸い込まれそう! 
ロビーの一面の窓から、樹木が折り重なるように連なる渓谷と、清らかな流れが見晴らせる。その緑の圧倒的な量と勢いといったら、まるで別世界にいるよう。
いつの間にかチェックインをすませたカレも、私の頭上でやはり窓の外に見とれている。 ロビーはかなり広く、お土産屋さんや雑貨屋さんもあって、ウキウキ。
後で絶対に見にこよう。 私は期待に満ちて、カレの手をギュッと握った。
目が合った店の人が、にこっと微笑んで会釈してくれた。

ワインを片手に私は、どんどんにこやかになっていくのがわかる。
意表をついた料理は、食べるのがもったいないほど色鮮やかで、まるで宝石みたいだ。
「旅館の食事って、なんで画一的かな?」と以前ぼやいていたカレも、趣向を凝らしたコースメニューに、目をみはっている。
「旅館でこんなに美味しいの、初めてだね」と笑いかけたら、カレは私の肩越しにさ迷わせていた視線をサッと戻した。何を見たいのか知っているよ。
食欲をそそる香りを漂わせる蓼科牛のステーキを前に、心のどこかで火がついた。さっきから、小柄で目がくりっとした、カレ好みの女のコがいるなあと思ってたんだから。


夜気に立ち昇る檜の清々しい香り、甘えるようにカラダにまとわりつく湯、ドキドキしながら落とす視線…。
湯のなかで時折触れ合う肌が、びっくりするほど滑らかに思える。
夜の闇の向こうには、静けさに満ちた深い森と、鏡のような水面が広がっている。空でチカチカ瞬く星と、炎のような月を眺めていたら、さっきの意地悪な気持ちが、すうっと消えた。
ほのかに揺らめく明かりの下で、私の肌がつやつやとはちみつ色に光っている。



朝霧に包まれた森を、鳥の囀りと水音が清々しく満たしている。 渓谷をジグザクに下る小道を抜けて大滝へ。
ザザーッと迫力ある轟音で流れ落ちる滝を前に、ポットに詰めてきた熱いコーヒーをゆっくりと味わう。

親湯への一本道を取り巻く森にあるせいか、宿泊客しか訪れないという大滝も温泉神社も、今朝はなんと2人占めだ。
朝のひと時を贅沢に過ごせる旅って、本当に素敵だと思う。

霧の向こうに開けた青空も、頭上の梢も、清々しいような山の霊気に満ちている。 今日、早起きしてよかった。

朝の爽やかさに誘われて、小一時間も散策したおかげで、お腹はペコペコ。

地元産中心の食材もよいのか、ご飯は甘く、素朴な地味あふれる朝食がとても美味しい。
いつもは朝ごはん抜きのカレが、味噌汁までお代わりしてモリモリと食べる姿にびっくり。
ふと、手の込んだ朝ご飯を作ってあげたくなった。